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-前史- その1 | 日本俳優連合30年史

約 16 分
-前史- その1 | 日本俳優連合30年史

放芸協の幕開け

その日は心地よい秋晴でした。朝方は霧が出ていましたが、直に上がり、陽の光の下では、時に、残暑を感じさせながらも、最高気温は27.2度。夕方雲が広がるころに吹き抜ける風はもう涼しさに変わっていました。

1963(昭和38)年、東京の町中は、翌年10月に開催を控えたオリンピックの準備で騒然としていました。手塚治虫作の傑作マンガ『鉄腕アトム』の画面でしか見たことのない、空飛ぶ自動車用のような高速道路が現実となって姿を現し、地方から上京した人々は巨大なコンクリートの固まりを見上げては、ただただ驚くばかりでした。東京・大阪間には東海道新幹線の新しく広軌の線路が敷かれ、世界一のスピードを誇る最新電車の走行テストが準備されていました。

翌64年の東京オリンピック開催をきっかけに日本全体は、一時、建設ブーム後の反動で深刻な不況に陥ります。また、オリンピックの観戦を契機として急激に普及したカラーテレビによって映画産業は一気に衰退に向かうことになります。しかし、オリンピックの開催までまだ1年を残したこの時点では、世相は希望と夢にあふれ、浮き浮きしたような気分に満たされていました。

放芸協(日本放送芸能家協会)の設立総会が、東京・平河町の都市センターホールで行われたのは、そんな世の中の動きが見られた1963年9月22日のことでした。「著作権制度と放送法の改正を前にして日本放送文化の向上という公益のために結成」という大義名分を掲げての開催でした。後に日本俳優連合へと発展する組織が産声をあげる記念すべき日でした。議長には江見俊太郎氏(現・日本俳優連合副理事長)と当時はNHKのアナウンサーで、司会役としては人気絶頂だった高橋圭三氏が、総会後の祝賀パーティーではコロンビア・トップ氏と一龍斎貞鳳氏が司会を務めたと当時のパンフレットには記されています。

発起人は代表の徳川夢声氏をはじめとして195名。放送芸能の実演に関わる人ならどなたでも、というわけで俳優ばかりでなく評論家、映画監督、作曲家、作詞家、指揮者、司会者、歌手、漫才、ボードビリアンといったジャンルの方々も名を連ねておられました。この記念すべき発起人の方々のお名前は別掲の囲みの中に明らかにしてあります。

放芸協の発足に当たって、関係各方面から激励の言葉が寄せられました。これもまた貴重な記念として記録に止めておきましょう。

(社)日本民間放送連盟会長
足立 正氏

「民間放送は最初の電波以来10年を経て重要な秋に当面しております。政府では目下現行法の大幅な改正に手をつけております。また近い将来に放送の登場、UHF帯の開発も準備されております。みなさまが番組の充実に一そうのご協力を賜るようお願いしてお祝いの言葉といたします」
(社)日本俳優協会会長
市川左団次氏

「私たち芸能人が世の中の急速な動きや変化に対するには、自衛の方法としては同業者の善意の結集が何よりかと存じます。その意味からしても貴会の御発足はむしろ遅きに失したと感じられるほど喜ばしいことと存じます。芸能文化の育成と向上のために貴会の御充実をお祈り申し上げます」
(社)日本喜劇人協会会長
榎本健一氏

「私たち俳優は今日、的確に早急に検討されねばならない重要課題を山と抱えております。放送全部門の方々の御熱意を合わせて多くの問題を解決し、日本の芸能文化の向上に寄与せねばならないと存じます。貴協会がそれらを中心となってご実現下さいますよう祈るものであります」
日本歌手協会会長
東海林太郎氏

「個人ではとうてい達し得られない芸能人の人格権と生活権を団体の力でかちとり、その親睦共済ならびに福利厚生をはかることは御同慶の至りと存じます。貴協会の設立総会にあたり日本歌手協会は貴協会ならびに文化諸団体と提携して人のため世のためにつくそうとする決意を新たにいたします
日本放送芸能家協会 設立発起人 (195名)
代表・徳川 夢声
青野 平義 / 明智 十三郎 / 芥川 隆行 / 芥川 比呂志 / 浅野 進治郎 / 朝丘 雪路 / 芦原 邦子 / 渥美 清 / 有島 一郎 / 淡路 恵子 / 赤木 蘭子 / 伊志井 寛 / 飯田 蝶子 / 池内 淳子 / 池田 忠夫 / 池田 よしゑ / 池部 良 / 石黒 敬七 / 石浜 朗 / 泉 大助 / 一龍斎 貞山 / 一龍斎 貞丈 / 一龍斎 貞鳳 / 市川 中車 / 市村 俊幸 / 岩井 半四郎 / 巌 金四郎 / 宇野 重吉 / 浮田 佐武郎 / 臼井 正明 / 内田 稔 / 江川 宇礼雄 / 江戸家 猫八 / 江見 俊太郎 / 榎本 健一 / 小沢 栄太郎 / 小山田 宗徳 / 尾上 九朗右衛門 / 尾上 松緑 / 緒方 敏也 / 大木 民夫 / 大空 ヒット / 大平 透 / 奥野 信太郎 / 加藤 嘉 / 加藤 道子 / 香川 京子 / 笠置 シズ子 / 笠間 雪雄 / 樫村 治子 / 梶 哲也 / 桂 小金治 / 木下 華声 / 寄山 弘 / 北沢 彪 / 久米 明 / 久里 千春 / 楠 トシエ / 桑山 正一 / コロンビア・トップ / コロンビア・ライト / 小泉 博 / 小島正雄 / 小山源喜 / 木暮 実千代 / 河野 秋武 / サトー・ハチロー / 佐々木孝丸 / 佐竹明夫 / 佐野 周二 / 坂本 九 / 桜 むつ子 / 猿若 清方 / 沢村 貞子 / 汐見 洋 / 島 宇志夫 / 島倉 千代子 / 清水 元 / 清水 将夫 / 菅原 謙二 / 菅原 通済 / 鈴木 光枝 / 杉村 春子 / 薄田 研二 / 砂塚 秀夫 / 関 光夫 / 園井 啓介 / 田中 明夫 / 多々良 純 / 高田 稔 / 高橋 和枝 / 高橋 圭三 / 高橋 とよ / 高原 駿雄 / 高松 英郎 / 隆の家 万竜 / 宝井 馬琴 / 滝沢 修 / 武内 文平 / 立岡 光 / 玉川 伊佐男 / 丹波 哲郎 / 田武 謙三 / 千秋 実 / 千葉 耕一 / 千葉 信男 / 司 葉子 / 寺島 幹夫 / トニー・谷 / 戸浦 六宏 / 都上 英二 / 東野 英治郎 / 轟 夕起子 / 殿山 泰司 / 富田 仲次郎 / 友田 輝 / 中村 次郎 / 中村 竹弥 / 中村 メイコ / 永井 智雄 / 長門 裕之 / 夏川 静江 / 七尾 伶子 / 浪花 千栄子 / 成瀬 昌彦 / 南原 宏治 / 二本柳 寛 / 西 桂太 / 西田 昭市 / 沼田 曜一 / 野田 雄司 / 野々村 潔 / 服部 哲治 / 服部 良一 / 花柳 喜章 / 原 泉 / 原 保美 / 坂東 三津五郎 / 樋口 功 / 東山 千枝子 / 久松 保夫 / 船橋 元 / フランキー堺 / フランソワーズ・モレシャン / 藤浦 洸 / 藤原 釜足 / 藤間 紫 / 藤村 有弘 / 文野 朋子 / ペギー葉山 / 穂積 隆信 / 宝生 あやこ / 堀 雄二 / 本郷 淳 / 真野 純 / 牧野 周一 / 松村 達雄 / 松本 幸四郎 / 三井 弘次 / 三木 鮎郎 / 三木 のり平 / 三国 一朗 / 三国 連太郎 / 三津田 健 / 水の江 滝子 / 宮川 洋一 / 宮口 精二 / 宮島 一歩 / 宮田 羊容 / 牟田 悌三 / 武藤 英司 / 村瀬 正彦 / 望月 優子 / 森 光子 / 森繁 久彌 / 森塚 敏 / 安井 昌二 / 柳 永二郎 / 柳沢 真一 / 柳家 金語楼 / 山岡 久乃 / 山田 五十鈴 / 山田 己之助 / 山村 聰 / 山本 嘉次郎 / 山本 安英 / 山本 礼三郎 / 由利 徹 / 湯浅 実 / 万代 峯子 / ロイ・ジェームス / 若山 弦蔵 / 渡辺 紳一郎 / 渡辺 久子

こうしてみると、放芸協の発足はいかにも順調に進んできたように見えるかもしれません。しかし、実際にはこのための準備に当たった人々の涙ぐましい努力があったのでした。

一つのきっかけ

放芸協を組織するに当たって、中心的に基礎作りを進めたのは俳優の久松保夫氏、村瀬正彦氏でした。いずれも1960年代において、テレビドラマやラジオドラマ、また映画や舞台、そしてテレビの外国映画の声の吹き替え(アテレコ)などで絶大なる人気を博した俳優です。久松氏が俳優の組織を形成するのに力を発揮したのは、生来の力量に加えて伏線となった事件があったと言われています。それは1959(昭和34)年、芸能界を驚かせた「太平洋テレビ事件」でした。

この年、北海道出身で代議士の秘書を務めた経験のある清水昭という名の人物が単身渡米し、米国3大ネットワークの一つであるNBCとの独占契約を取り付けて帰国したのでした。この契約は、NBCの持っている外国映画を日本へ輸入する権利を独占してしまうというもので、新聞に大きく報道されたばかりでなく、スタートしてまだ間もなかった民間放送各社の経営状況を大きく左右するものとして、業界全体を震撼とさせたのでした。

清水昭氏の野望は、外国テレビ映画の輸入を独占するばかりでなく、日本の俳優をも独占してしまおうというものでした。そして、手を結んだのが有力俳優の久松保夫氏だったのです。もともと弁舌さわやかで人なつこく、包容力もあった久松氏は俳優仲間に声をかけては同調者を集め、半年間で「太平洋テレビ芸能部」(PTC)を興してしまいました。東京・築地に事務所を構え、事業開始の宣伝も華やかに、文字通り時代の寵児となったのでした。所属した俳優600余名、マネージャー30余名だったと言われていますから、巨大な芸能集団が短期間の間に出現したのでした。

ところが、この新しいプロダクションは、ほとんど実績を挙げないまま、崩壊してしまいます。あまりにも性急な組織化のために、人は集まったものの、それに見合うだけの仕事が確保されず、投資資本の回収の目途が立たず、破綻したのです。1956(昭和31)年、政府が『経済白書』の中に「最早戦後は終わった」と書き込んで以来、高度経済成長に向けて日本全体が飛躍して行こうとするなかで、新しいテレビ文化の幕開けを象徴するかのようなプロダクションの出現でしたが、結果はあだ花に終わってしまったのでした。

ただ、事業体の設立としてはあだ花だった「太平洋テレビ」事件も、俳優の力の結集という意味では遺産を残しました。1960年初頭に、築地本願寺で開催された「俳優クラブ世話人」の呼びかけによる集会です。先に600人を結集した実績から見ると、わずか30%弱の動員に過ぎませんでしたが、それでも170人余が集まって討議を開始したのです。PTC破綻の過程では、固定給制度を廃して歩合給にすると告げられた約30人のマネージャーたちが早々に労働組合を結成し、ストライキを打ったりしていました。そこで、討議は「俳優はマネージャー集団とはどう提携したらよいのか」に始まり、「そもそも俳優の権利とは何か」「何に向かって闘うべきか」と進められていったのです。

とくに、外国映画の吹き替えなど新しい分野の放送芸能に携わろうとしていた俳優には重要な取り組みの開始となりました。当時、放送局側は吹き替えやラジオドラマに出演する俳優には、実際にテレビに顔を出して演技する俳優と大きな格差のある出演料を押しつけていました。顔が出ないのだから演技の質が落ちる、などという理屈はどこにも立つはずがありませんが、作品を作る側には差を付けなければいけないという先入観念があったのでしょう。文字通り目分量で、出演料を八掛け(20%引き)とか七掛け(30%引き)に値切ってきたのです。局によっては、「声しか出てないのだからラジオのランクで」と堂々と低い出演料を押しつけてきたところもあったと言われています。画面に顔を出そうと出すまいと全力で演技に立ち向かう俳優に、また、同じように時間の拘束を受ける俳優に理由なき格差を押しつけるという矛盾がまかり通っていたわけです。

こうした状況を打ち破るための俳優の力の結集が、太平洋テレビの失敗を教訓とした久松保夫氏の指導で開始されたのでした。1987(昭和62)年に発行された社団法人・日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の創立20年史『芸団協 春秋二十年』では、この一連の流れと経緯について

「放送資本が醸成したこのいわれなき人格権への偏見が、声優たちに作用した反面教師としての影響は強烈であり、権利意識を基調とする著作権問題に、彼らが示した反応が他を圧していたのも当然だった。とりわけ太平洋テレビ事件以来屈折した心境にいた久松は、獲物をねらう荒鷲のように猛然と立ち上がって著作権法の改正案と真っ向から取り組み、のちに『忘れられている著作権――芸能人は法律でどのように護られているか――』なる畢生の遺書を残している」

と記しています。まさに、放芸協、芸団協そして日本俳優連合の組織化に向けて無類の力を発揮する久松氏の行動はここに始まったと言えましょう。

秘密会合を重ねた頃

この久松氏を中核として、放芸協結成の基礎作りをした首謀者ともいうべき人は村瀬正彦氏でした。村瀬氏はPTC崩壊の過程で、後に日俳連の理事、常務理事を歴任する玉川伊佐男氏、テレビ、映画で活躍する松村達雄氏とともに、浮き足立つ俳優に仕事を斡旋する世話役を買って出た中心人物でした。また、俳優の将来展望を拓くためには別の組織を結成する必要があると考えていました。そこで、日本生活協同組合連合会の顧問である島村矢氏に飛び込みで指導を仰ぎ、何人かの仲間を呼び込んで、1960年5月、東京俳優生活協同組合(俳協)を設立したのです。その経験は長期にわたって生かされ、後に日俳連が結成されてからは25年の長きにわたって事務局長を務めることになります。

久松、村瀬という積極行動派の人の動きを静かに見守っている人がいました。放芸協の設立後は財務担当理事となり、日俳連でも常務理事として活躍した矢田稔氏です。矢田氏は当時の模様を次のように述懐しています。

「私は、あの頃、久松さんが主演だったTBSのテレビドラマ『日真名氏飛び出す』に一緒に出ていたんです。そのほか文化放送の連続ラジオドラマ「君ひとすじに」でも久松さん、村瀬さん、それに久保菜穂子さんらとご一緒していましたが、久松さんとはたまたま番組収録後に帰宅する際の宅送りの車の順路が同じ方向で、いつも同乗して帰ることになっていたんですね。車の中では当然おしゃべりをすることになる。久松さんはいつも熱心に語っていましたよ。矢田君、テレビの普及はまだまだこれからだよ。でも、近い将来に普及すればラジオドラマの録音テープのように、テレビドラマも固定されてそのテープが普及するようになる。そして大人も子どもも、いまみんなが本屋で本を選ぶように、テレビドラマの作品を本屋さんみたいなところで買い求め、家に持ち帰って自宅で映すようになるよ。テレビ局だって人気の出た番組は何度も再放送するようになるだろう。そうなったら役者はどうなると思う? 出演の機会を失うことになるのだよってな具合です。わたしは、なるほどとは思いつつも、何となく漠然とした思いで聞いてたんですが、この話が現実になるのは早かったですね。さすがに久松さんは鋭い先見性を持っておられたのですよ」 と。

余談になりますが、『日真名氏飛び出す』は1955年にテレビ放送を始めたTBS(当時はラジオ東京といいました)の売り物ドラマでした。主人公の日真名氏は新聞社の元カメラマンで、退社後、東京・銀座でカメラ・ニュース社を経営。雑誌社の依頼でニュース写真を写すのを職業とし、助手に泡手大作というおっちょこちょいのミステリー狂を抱えるという設定でした。取材の出先では必ず事件にぶつかり、趣味と実益で事件を解決するところに面白さがありました。企画は映画評論家の双葉十三郎氏、スポンサーは大手広告代理店の電通でした。同じ年にNHKで始まり、人気クイズ番組のはしりとなった『私の秘密』と双璧だったと言ってもいいでしょう。

さて、話を元に戻しますと、会議は、常に、秘密裡に行われていました。俳優が待遇改善を求めて団結しようとしているなどということが放送局の人間に知れたら、ぶっ潰しのためにどんなことが行われるか、大変危惧されたからです。久松氏が的確に予言していたように、放送局にとって再放送や番組の転用利用は合理化策の最たるものでした。放送の手間がかからず手軽なうえに、新規製作のためのコストが削減される。それでいて人気番組に関しては視聴者のニーズに応えることもできる。すなわち、放送局にとって見れば一石二鳥の効果が期待できるものだったのです。しかし、俳優をはじめ出演する側にとってみればデメリットはあまりにも大きな問題です。出演する機会は失われるばかりか、一回の出演で二度も三度も放送を繰り返されたのでは、それだけ収入が少なくなってしまいます。

「これは演技で生活を立てている者の権利の侵害ではないか」。久松氏らは「演技権」なる言葉を基に放送局への要望書を作成、提出していましたが、それからというもの放送局からの締め付けが厳しくなっていたのです。

「声の演技権」に関わる要望書

1962(昭和37)年12月、久松保夫氏は、自らに同調する声優84人とともに「声の演技権」に関わる要望書を作り、社団法人・民間放送連盟と文部大臣に送付しました。その主張は、外国テレビ映画の日本語版放送に当たり、アメリカの放送会社が日本語版のテープもフィルムとともに「アメリカ側に権利あり」と言い続けていることへの反駁を主体としたもので、これにつき関係各機関の見解統一と立法化を求める内容になっていました。とくにこの要望書の中では、すでにドイツ、フランス、イタリアにおいては法規制によってフィルム版権の料金とダビング版権の料金が同額になっていることを強調した点が時代を先取りした特徴になっていました。

この頃、まさに期を同じくして、(社)日本映画俳優協会(略称・映俳協)でも活発な動きが生じます。製作会社に対抗するには強力なユニオンを結成できないか、との模索が始まったのです。後に詳述するように、1961(昭和36)年6月には映画製作大手6社の一角、新東宝が製作を中止し、旧作映画を放送局に売却するという事態が生じます。本来、劇場で上映するものである映画がテレビを通じて茶の間に送られるという、それまでの常識では考えられない“異常事態”が常態化されようとしていたのです。映俳協では、まず1962(昭和37)年12月8日に新東宝に対して申し入れを行い、12月29日には代表理事、池部良氏の名で新東宝との間の覚書を交わして150万円を受領します。

映俳協は、この動きを基に1963(昭和38)年2月、「ユニオン研究会」の発足を決議します。そして二谷英明氏を長として各社から池部良氏、月形龍之介氏、森繁久彌氏、佐田啓二氏、山村聰氏、高峰秀子氏、市川雷蔵氏の七氏が幹事になって準備委員会を発足させるのです。これは、江見俊太郎氏が著作権法に係る実演家の権利について研究した結果を映俳協の機関誌「俳優」で発表したのがきっかけでした。実演家の新しい権利とは、1961(昭和36)年10月、ローマで採択された「実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約」(通称・ローマ条約)による「著作隣接権」です。実演家の権利を規定したローマ条約とわが国の現行著作権法については後述しますが、法律の規定はどうあろうとも大切なのは製作者と実演家が出演に際して明解な「契約」を結ぶことです。江見氏は研究を進めるに従い、このことを痛感して投稿したのでした。

この他にも実演家の動きは活発で、同年2月14日には、歌手の方々が自らの利益擁護を目的に「日本歌手協会」(略称・歌手協会、会員300人、代表 東海林太郎氏)を誕生させ、同じ日に日本新劇俳優協会(略称・新劇俳協、会員数340人、会長 東山千栄子氏)と日本映画俳優協会、それに新劇団協議会(略称・劇団協、加盟劇団数30劇団、代表劇団は民藝、議長は柳沢信邦氏)と放送出演者有志とが加わって著作権問題に関する初会合を行うのでした。この初会合では集まった四者が、

  1. 今後、四者は協力し合って共通問題の処理をはかる
  2. 著作権について合同研究会をもち、交渉も統一しておこなう
  3. 映画、放送などの出演契約の合理化、正常化をはかることも協力して行う
  4. 放送出演者の組織形成をバックアップする旨、申し合わせています。

このように俳優の中に権利意識が目覚めてくるのに対して放送局の警戒感が日増しに強まっていったことは間違いありません。要望書の提出を機に組織結成に向けて行動しようとする者への監視は日々厳しくなるのでした。俳優たちは決して放送局側に尻尾を捕まえられないよう、打ち合わせには慎重がうえにも慎重を期しました。

慎重な打ち合わせとは、他人に知られぬ場所での会合です。当時、放芸協結成に向けての同志が集まったのはJR(当時は国電と言いました)の四谷駅に近い「九州」という名の日本旅館でした。久松氏とともに放芸協発足に多大の力を発揮した村瀬正彦氏の所属する東京俳優生活協同組合(俳協)が四谷に位置していた関係で、「九州屋」「九州屋」と呼び合っては利用することになったのでした。ただ、集まる人々は「決して複数で連れ立って行かないように、と厳しく注意されていた」とか。当時をよく知る声優の永井一郎氏によると「この集まりに参加していることが放送局にバレたら、必ず局側からの懐柔策によって各個撃破され、結成は妨害されただろう」という状況でした。