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-前史- その2 | 日本俳優連合30年史

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-前史- その2 | 日本俳優連合30年史

いよいよ設立総会へ

放芸協の設立に向けて一連の動きが一気に加速するのは1963(昭和38)年4月からです。

それより先、同年の3月28日、映俳協、新劇俳協、劇団協と放送出演者有志の四団体代表は日本著作者団体協議会(略称・著団協、会員団体数26団体、議長は作家の石川達三氏)の総会に出席。文部省社会教育局著作権課長の佐野文一郎氏から文部大臣の諮問機関である著作権制度審議会における審議の状況の説明を受けました。そして、新劇俳協、劇団協、映俳協の各団体は著団協の正式メンバーとして登録されましたが、放送関係出演者は「まだ組織が完備されてない」を理由に見送りとされてしまったのです。

「組織化を急がなければいけない」。この機運は放芸協結成を目指す人々の間に広がりました。4月10日には「日本放送俳優協会」(仮称)の発足準備会が結成され、同12日、17日、19日と連続して会合が開かれました。

度重なる会合によって放送局に向けての要求の進め方を確認した後、放芸協発足に向けての最重要課題は代表者の選定でした。そして「誰を選ぶか」と同時に選んだ人に対して「誰が就任の説得に行くか」が問題になりました。

会合に参加していた人たちの間で「徳川夢声先生にお願いしよう」との意見の一致は比較的簡単に出来上がったと言われています。「現役の実演家で放送番組に出演する機会が多く、NHKをはじめ民間放送局に対する発言力もあり、しかも番組スポンサーの総元締めみたいな力を持っていた広告代理店の電通にも顔の利く人と言ったら、徳川先生を除いて他に人材は考えられなかった」というわけで、徳川理事長構想はまとまりました。

さて、現実に東京・荻窪の徳川邸に出向いたのは久松氏に加えて江見俊太郎氏、村瀬氏の3氏でした。久松氏は、多くの人が証言しているように話の進め方が圧倒的に上手く、説得を始めたら必ず落とす不思議な術を備えていた人でした。訪ねたその日、徳川氏とは面識がなかったにもかかわらず、即日口説き落としてしまったのですから驚きです。放芸協設立後、さらには芸団協創立後に行われた放送局との団体協約でも、交渉のイニシァティブを握るのは常に久松氏でした。

代表を引き受けた徳川氏はいわゆる太っ腹な人柄でした。放送局に向けて番組の二次使用料や目的外使用料の支払いを要求するに当たって、その正当性を主張するために「他人のものを黙って使ったらドロボーですぞ」

と言ったというエピソードが伝わっていますが、まさに「言い得て妙」であると同時に、当時としては実に勇気のある発言だったと言えます。「普通の役者だったら、腹の中では思っていても、後々干されることを考えて絶対に口にできない言葉だった」からです。そんな言葉を堂々と言える人、それこそ代表者、すなわち理事長に頂きたい人材でした。1963(昭和38)年4月19日、説得に出向いた3氏に徳川氏は

「放送芸能家としては、NHKの開局来、長いことこの道を歩いてきたのだし、誰も引き受け手がいないのなら…」

と言い、比較的気楽に快諾してくださったと伝えられています。

理事長の就任内諾が得られたことで放芸協の設立準備はいよいよ本格化します。4月には、実に、6回の会合、5月にも3回の会合がもたれ、発起人会の招請や設立総会の日程、事務局長候補の人選、規約案の作成の準備が進められました。また、この間には「放送作家協会」の理事長・大林清氏や「日本生活協同組合連合会」の顧問・島村矢氏から組織運営についての指導も仰ぎました。

7月4日には事務局長への就任をお願いすべく布施柑治氏の内諾を得ました。布施氏は元日本経済新聞社の調査部長を務めた人でしたが、白羽の矢が立てられたのは村瀬正彦氏が所属していた俳協(東京俳優生活協同組合)との関連でした。同じ俳協所属の俳優で、後にマネ協(日本芸能マネージメント事業者協会)の事務局長を務める加藤進平氏の義理の兄に当たり、村瀬氏と加藤氏が親しい間柄だったため頼んでみようということになったのでした。

その10日後には、弁護士橋元四郎平氏の尽力による「日本放送芸能家協会規約」(案)が出来上がります。「日本放送俳優協会」にするか、「日本放送芸能家協会」にするかでは意見が分かれるところでしたが、「芸能家協会」の方が選ばれたのには次のようなエピソードがあったのです。 放芸協の設立発起人には、前述した195人のように俳優ばかりでなく、趣味の人、学者も含まれていました。そんな趣味の人の一人で慶応大学教授の奥野信太郎氏と徳川氏が、ある日、協会名のつけ方をめぐってやりあっていた時、

「で、いったい俺たちは何なの?」

と問う奥野氏に対し、徳川氏は

「あんたは“能”だよ。わたしは“芸”でね」

すると、奥野氏は

「じゃ、芸能家協会で決まりじゃないか」

というわけで、より多くの出演者仲間を組織するには「放送芸能家」とする方がよかろうとなったのでした。

設立総会は同年9月22日に開催となりました。総会には109人が出席したと記録されています。事前の会員登録で集まった会員数210人だったのですから半数以上の出席を見たのでした。この総会では理事を53人、監事を3人、評議員を26人選出し、事務局長に布施柑治氏を指名するとともに事務局の設置を決定しました。

事務局長に就任した布施氏は、事務局の充実に意欲を燃やしていました。事務局員の公募をしようと人材募集の原稿を書き残しています。

「日本放送芸能家協会(代表者 徳川夢声氏)が近く発足します。その事務局は次のような青年(男子)を求めています。
写真撮影に自信があり、謄写版の仕事が上手で、簿記の心得があること
機関誌その他の印刷物のレイアウトなどでベテランになりたいと思う人であること
九月から実際に仕事をする時間があること
誠実で、かつ冒険心が強く、創立早々の芸能家団体の小さな事務局から洋々たる人生へ出発するのも面白いと感じる人であること
事業の将来に対して若々しい空想力と、それを実現する活動力をもつこと
給与は協会の発展とともに増えますが、当座は中小企業なみです。ご希望の方は左記に至急電話して面会を申し込んで下さい。

なお、当方は協会の事務局長予定者で、元日本経済新聞調査部長、岩波新書の著者。

昭和38年8月21日
東京都杉並区天沼1の258 電話(398)2089
布施柑治」

しかし、この原稿は公表されることはありませんでした。財政基盤の弱かった当初では事務局員を雇う余裕がなかったのでしょう。徳川理事長の尽力で、東京・銀座の電通ビル内に設置された事務局には事務局長のデスクが置かれただけでした。

日俳連に引き継がれた精神

当初、任意団体として発足した日本放送芸能家協会(放芸協)の目的と事業は、協会規約の中で次のように決められました。

「この協会は、放送(ラジオおよびテレビジョンをいう。以下同じ)に出演する専門芸能家の提携の場となり、会員相互の親睦と研修によってその技能と品位の向上ならびに福祉の増進をはかり、もってわが国放送文化の発展向上に寄与することを目的とします」(第4条 目的)

「この協会は、前条の目的を達成するために、次の事業を行います。

  1. 放送出演に関する諸問題について
    (1)調査研究と意見の発表
  2. 機関誌の発行および資料の刊行。
  3. 研究会、講演会その他の会合の開催。
  4. 芸能家に対する放送専門教育機関の設置および運営。
  5. 放送芸能家会館の設置および運営。
  6. 関係文化団体との連絡、提携。
  7. 放送芸能家の国際的交流。
  8. 放送文化の向上に寄与した団体ならびに個人の顕彰、および研究の奨励。
  9. 会員の親睦、共済、および福祉厚生をはかる諸事業。
  10. その他前条の目的を達成するために必要な事業」(第5条 事業)

放送専門教育機関の設置や放送芸能家会館の建設などは、まさに「理想」というべきで、当初から具体的実現性がどこまで検討されていたかには疑問があります。事実、その後の歴史の中でも、実現に向けて動き出したという話はありませんでした。でも、ともかく理想は高くを目標とした旗印だったと言えましょう。因みに発足当初の入会金は500円、会費は月額200円でした。

一方、親睦の方は確実に実現しました。その最たるものがゴルフ・コンペです。Nihon Hoso Geinoka Kyokai Golf Club の頭文字を拾って「N.G.G(NG=だめな G=ゴルフにも通じたそうですが)徳川夢声杯」と名付けたコンペが、1968(昭和43)年11月14日を第1回として、10回開催されています。久邇カントリークラブ、芙蓉カントリークラブ、東京ゴルフクラブ、相模カントリークラブなどがその開催地となり、参加者は毎回20人前後。幹事役は大平透氏で、年会費は6000円。優勝者にはレプリカの他1000円相当の賞品が贈られると「ゴルフクラブの規約」には記されています。

俳優団体の大連合構想

ここで少し視野を広げ、他の分野で活動している俳優団体についての動向をも検証しておきましょう。

放芸協が産声をあげた頃、芸能界にはすでに、歌舞伎と新派の団体として(社)日本俳優協会(略称・日俳協、会員数427人、会長 市川左団次氏)、喜劇人の団体である(社)日本喜劇人協会(略称・喜劇人協会、会員数280人、会長 榎本健一氏)、それに映画俳優だけの組織、映俳協(会員数1127人、代表理事 池部良氏)、それに任意団体の新劇俳協(会員数560人、会長 東山千栄子)、劇団協(加盟劇団31劇団、議長 倉林誠一郎氏)が活動していました。中でも1951(昭和26)年に設立されていた映俳協は、太平洋戦争後の世相安定と経済復興の中で最大の娯楽であった映画の隆盛に支えられ、活動も活発でした。

ところが、そんな隆盛に冷水をぶっかけるような事件が発生したのです。1961(昭和36)年6月、当時大手6社と言われた映画製作会社の新東宝が経営不振から映画製作を中止し、旧作映画559本を民放テレビ局に売却するという事態が生じたのでした。

1961年という年はアメリカとソビエト連邦の対立を中心とする東西対立が一層の激しさを増した年です。4月にソ連がガガーリン少佐を乗せた人間衛星を打ち上げ、回収するという宇宙開発史上の画期的な成功を収めると、5月にはアメリカもシェパード中佐を乗せた人間衛星を打ち上げ、回収に成功しました。そして対立を明確化するために、東西対立の地理上のシンボルであったベルリンでは東西両ドイツの国民の行き来を完全に遮断する「ベルリンの壁」が作られました。

翌62年は、東京の人口が初めて1000万人を突破した年ですが、5月3日の憲法記念日には国電(現JR)常磐線の三河島駅構内で乗客を乗せた電車が脱線、車両から降りて駅に向かって線路上を歩き始めた乗客に逆方向から走ってきた電車が突っ込むと言う事件が発生しました。さらに63年11月にはアメリカのケネディ大統領がテキサス州ダラスで白昼射殺されるという悲劇が起きています。

新東宝の経営破綻、それに継ぐ旧作映画の売却という暴挙は、何か荒れた世相を映しているかのようでした。映俳協は、早速、新東宝問題への対策を講じる行動にでました。本来、劇場で上映することを目的に製作された映画をテレビ局に売却し、テレビ放映することで映画会社も放送局も一定の利潤をあげながら、出演者だけが放置されたままというのは明らかに不当だというわけで抗議行動が行われたのです。

1962(昭和37)年12月8日付けで映俳協(代表理事 池部良氏)から新東宝社長 阿部鹿蔵氏宛に送付された「申入書」は次のような厳しいものでした。

「先般来、貴社製作の劇場用映画作品がテレビ局に売却され、逐次テレビ番組として放送されていますが、之に対し日本映画俳優協会は貴社より何等の話合、申入れの無い事を甚だ遺憾とするものであります。私達映画俳優は当時該当作品出演に当って映画劇場においてのみ上映されるものと理解して協力したものであり、現在その影響力大なるテレビに於て第二次的に公開されるという事は全く私達の意志に反するものであります。近年実演家の権利についての保護方法は隣接権条約等に於て国際的に問題視されていることは既に御承知の事と思います。我が国に於ても国内法の改定に当り、「映画的著作物の著作権者実演家の権利の内容」及び「複製物の経済的利用価値を伴う第二次的使用の場合に於ける実演家の報酬請求権」等の問題が重要な課題として研究されている実情を顧みても、現在の斯かる問題を黙視することは出来ません。加之、一般視聴者側から見てかつての演技が今日の作品の如く誤解されるというおそれのある事は私達俳優にとって全く不本意な事であります。是に於て社団法人日本映画俳優協会は貴社に対し当該放送作品に関する何等かの報酬乃至その他の給付を受ける権利のある事を厳重に申し入れ貴社より好意的話合のある事を期待します。

尚、当協会の調査の中で当該放出作品の一部に製作完了時より現在まで何等の出演料も支払われていないままにテレビに売却されている極めて遺憾な事実を発見しており、この点についても併せて誠意ある御回答を期待します。

追而、貴社より当協会に会談の申入があるならば、出来る丈貴意に添う日時を以ってそれに応ずる用意のある事を申添えます」

この文章を書いたのは江見俊太郎氏でした。これより先、文部省の著作権課に出向き、佐野文一郎課長から教えを請うていた江見氏は、ある時、「実はね、江見さん、ローマ条約というのがあるんだよ」といって、条文を見せられたのでした。そこには、科学技術の進歩によって受ける被害から実演家を守ろうとする条文が列挙されていました。

「これだ!」

江見氏は、目からウロコの心境で「申入書」の執筆に当たったと言います。

この申入れに対し新東宝側は、同年12月24日、映俳協に150万円を年内に支払うことを確約し、問題は解決されました。しかも、この支払いに関わる覚書には「新東宝は、映俳協及び演技者の人格権を尊重し…」と書き込まれていました。当時、すでに監督たちは50万円、シナリオ作家協会は125万円を受け取っていたので、人数の多い俳優たちには割り増しを、というわけで150万円にまで引き上げたのでした。支払いは同29日に映俳協事務所にて行われました。

こうした経験を経て俳優の各団体は、自らの権利は自ら守らなければならないことを強く実感するようになります。また、折しも国内の著作権法が大きく改正されようとしている時期でもあり、各団体の結束の大切さも意識され始めていました。映俳協が新東宝に送付した申入書の中に「隣接権条約」なる語句が出てくるように、ローマ条約(または隣接権条約)の採択後は、それに伴って日本国内の著作権法を改正する動きが出始めていたのです。1962(昭和37)年3月には文部省社会教育局から映俳協に「著作権法改正に関する意見」の提出を求めてくるようにもなっていました。俳優団体連絡会(略称・俳団連)が発足するのはそうした背景からでした。

俳団連のきっかけは63年2月、新劇俳協、劇団協、映俳協に放芸協を結成しようとしている放送出演者有志が加わって「俳優四団体合同著作権研究会」をスタートさせたことでした。国内の著作権法改正論議が「著作権改正審議会第四小委員会」で進められ、文部省からは映俳協が意見書の提出を求められている中で、俳優は実演家の立場での意見を集約する必要に迫られていました。その研究のために集まった4団体に、さらに日俳協と喜劇人協会が加わり6団体の集う「俳優団体連絡会」として正式に発足したのが同年の6月のことだったのです。

この俳団連は、やがて、芸能実演家の権利拡大運動の総本山ともいうべき芸団協(日本芸能実演家団体協議会)誕生の中核となりますが、当初の活動は「俳優としての権利の確保」でした。1965(昭和40)年1月25日、6団体が代表者の連名でNHK、民放テレビ・キー局各社に送付した「申入れ」が、その典型です。この「申入れ」はわずかに3行「出演者が再使用を許諾した覚えのない番組の無断放送はお止めいただきたいと存じます。右、申入れます」と記しただけでしたが、用件のみを明確に絞り込んだ文面は、実に、迫力に富んだものでした。

正当な権利を主張した先駆者

当時、このような行動が起こせる基盤作りをしたのは江見俊太郎氏です。江見氏は、新東宝所属の映画俳優に始まり、舞台、テレビと幅広く活躍した方ですが、その一方で、日俳連の理事、常務理事、副理事長を歴任。芸団協でも常任理事、顧問、参与を歴任され、実演家の立場から著作権問題、著作隣接権問題へのアプローチを理論的に構築する牽引車の役割を果たしたのでした。1963(昭和38)年7月6日付けで毎日新聞(夕刊)学芸面には「演技の著作権 ――俳優の立場から――」と題する次のような小論文が掲載されています。

記念すべきその内容のポイントをここに再録しておきましょう。

最近テレビの「深夜劇場」が視聴率を上げて話題になっているが、同様に旧(ふる)い映画の再上映やテレビ・フィルムの再放送あるいはレコードの二次的使用などの場合の実演家や事業者の権利保護に関することが、法律上の新しい問題として世界的に取りざたされている。

わが国でも最近、映画、演劇、放送出演者たちの六団体が俳優団体連絡会を結成、「俳優の演技を著作権法で保護せよ」と演技権確立についての統一意見書を文部省の著作権制度審議会に提出した。

文学や美術のように個人の創作による著作物は、いわゆる著作権法において明確に保護されやすい。しかし、ほとんどの場合、複数的な創作労作によって公表される実演家の演技についての権利保護は、法的に規定することが事実むずかしい。だが法の力を借りなければ実際において被害がくい止められないとしたらどうか。

一例を新東宝映画のテレビ放映にとってみても、放出された554本の作品が3回ずつ放送されるとすれば、1本1時間半平均として延べ2500時間であり、朝の6時から夜中の12時までぶっ通しに放送しても1放送局の全番組が130日間埋められる。つまりそれだけ俳優の職場は時間的に失われていることになる。このうえ、各映画会社が旧作を放出したり、テレビ・フィルムが再放送されたりしたらどうなるか、失業俳優の続出は目に見えている。映画館の再上映しかり、大作映画の長期興行しかりである。

しかも被害は“職場の時間的消失”のみではない。人格と技術の成長によって、より新しい役柄、より斬新な演技を発表しようとしても、繰り返し公表される以前の作品のイメージにわざわいされて、次第に役柄の範囲も仕事の量や質も限定されてしまう。このことは他の一般著作物(小説や絵画等)と同一にして考えることはできない。俳優の場合は自分の肉体そのものが直接の表現資材だからである。(以後省略)

この考え方は、この新聞が発行されてからすでに40年近くを経た21世紀になっても、依然、十分な解決を見ず、世界に共通している実演家の考え方になっています。実演家の権利に関する課題の困難さを改めて考えさせられます。

俳優の権利意識に関しては、これより先に、高峰秀子氏が雑誌『文藝春秋』(1962年9月特別号)に「わたしの人権宣言」と題する寄稿をされています。その中身は、62年8月に撮影中だった林芙美子原作の「放浪記」(高峰秀子主演、成瀬巳喜男監督)の上映に先立ち、同じ原作者、主演、監督の「稲妻」を10年も前の作品にもかかわらず、新作品の如く装って再上映したことに対する抗議でした。映画会社の欺瞞的な行為に対する憤懣と同時に、個人的には10年前の未熟な演技が今のものと誤解されることへの恥じらいだった、と言っておられます。高峰氏は「俳優たるもの、一歩ずつ、一歩ずつ古い作品を捨て去り、乗り越えて進んでゆくべきものである」と主張し、以前の未熟な演技を今日のもののように扱うのは俳優に対する「営業妨害である」と主張されたのでした。

1963(昭和38)年1月25日発行の映俳協の機関誌「俳優」第1号には、その当時の俳優が社会的にどう扱われていたかについて次のような記述があります。

「御存知の方もあるでしょうが、職業安定法では、俳優をマネキン、派出婦等と恰も同一職業として扱っています。私達俳優の仕事の特殊性は、職安法的に考えただけでは適格に保護できるものでもなく、また著作権法的適用もなかなか難しいのです。つまり、ここで考えるべき特殊性とは次のようなことではないでしょうか。

一般にあらゆる商売には商品というものがあります。すなわち品物です。品物はあくまでも品物で、それを売る人間そのものではありません。(中略)ところが俳優の場合はどうでしょうか。作品として発表するモノは自分自身のこの体そのものであり、声そのものではありませんか。作り手であり、売り手であり、また商品でもあるのです。(中略)とすれば、自分の仕事について、現在はもちろん過去の仕事に対しても最大限の責任を持つという精神において言うべきことを言い、通すべきことを通すだけの権利があって然るべきです」

まさに当を得た指摘と言うべきでしょう。