日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト

Japan Actors Union

1973年 | 日本俳優連合30年史

約16分
1973年 | 日本俳優連合30年史

-1973年- アテレコ問題のルール整備

1973(昭和48)年3月24日午後6時。東京・永田町の都市センターホールには、大きな4本のプラカードが掲げられました。

「無断リピート放送断固糾弾!」

「業者は、正当な使用料を支払え!」

「20年間の財産権を売った覚えはない!」

「人のものを黙って使やぁドロボウですぞ!」

日俳連の外画・動画等対策委員会が主催した「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会」が、吹き替えの仕事をする俳優全員の70%にも達する、158人の参加者を集めて開会を迎えようとしていたのです。

外国映画日本語版に出演する俳優の待遇は、その当時、本当にひどいものでした。日本芸能マネージャー協会(マネ協)が1962年から、3年ごとに集計してきた調査結果によりますと、在京民放テレビ局が5社体制になって以降の1965年、68年、71年の時点で、調査期間1週間の間に5社が流した番組の総放送分数は36,000分から40,000分へと11%増に止まり、外国映画(日本語版)の放送用制作分数は逆に3,900分から1,992分へと49%減となっているにもかかわらず、外国映画のリピート放送分数は3,025分から4,644分へと54%もの急増を記録していたのです。もちろん、この間俳優にリピート放送料が支払われた実績はありませんでした。

日本語版吹き替えに出演した際の出演料は、音声連(日本音声製作者連盟)の前身である音声製作会社7社で結成していた紫水会が設定している俳優1人々々のランクによって決められます。放送時間30分が1単位となり、30分増すごとに20%の加算、2時間枠の長尺でもランクの160%しか支払われないシステムになっていました。ランクの最低は3000円。500円刻みでアップし、最高は30,000円止まりですが、10,000円を超える俳優はほんの数えるほどしかいなかったのでした。ですから、日俳連が1972年9月時点で外画・動画等対策委員会のメンバー146人(平均年齢36.4歳)にアンケートしたところ、1ヶ月の吹き替え出演の平均は11本。税金と所属事務所に払う手数料を差し引くと手取り収入はわずかに71,000円という結果になりました。夫婦と子ども2人の標準家族で1ヶ月の生活費が10万円と言われた時代、これでは人権蹂躙と言われても仕方がない状況だったといえるでしょう。

こういう状況でしたから、日俳連は、紫水会に対し、1972(昭和47)年9月11日、次の5項目による出演ルールの覚書案を提示し、締結を申し入れていました。

その5項目とは

  1. 録音後2年間は、放送への利用を認める。
  2. 期間内、2度目以降の利用(リピート放送)については、放送1回につき初回出演料の30%の支払いを求める。
  3. 2年後の作品の保存、利用については、改めて出演者の許諾を要する。
  4. その場合の再使用料は、初回出演料の100%。
  5. 海外提供、目的外使用には許諾を要する。

でした。

ところが、この申し入れに対して紫水会からは、当初、対案の提示も回答もないまま5ヶ月が経過してしまいました。そこで日俳連は、1973(昭和48)年2月15日、上記「覚書案」を単純化した申入書を作成、紫水会加盟各社に配達証明で送付しました。

「出演料は1回分の放送利用のための録音を目的とした実演の対価であり、それ以外の利用に関する使用料は含まれていないとの立場で出演いたしておりますので、左様ご承知おき下さい」

がその時の文章です。

しかし、これでも埒はあきませんでした。紫水会側は「外国映画の吹き替え製作は、アメリカの映画会社直系フィルムの配給業者で構成する山水会の意向に左右されているのだ」を理由に、苦しい立場を訴え、話し合いが進展しなかったのです。この結果、業を煮やして日俳連が開催したのが3月24日、4本のスローガンを掲げた俳優集会だったのです。集会に参加した158人は全員賛成で、「俳優の権利を製作者側に全面譲渡することは絶対に拒否する」旨の決議をしました。そして、さらに紫水会各社に対して「著作権法に基づく実演の利用許諾の方法及び条件」を申し入れたのでした。

そんな折り、政界から応援が入ります。1973(昭和48)年3月29日の参議院逓信委員会で青島幸男議員(後の東京都知事)はデータを基に「俳優は冷遇されているのではないか」とNHKの経営姿勢を追及したのです。当時の議事録からその一部を抜粋してみますと

青島幸男君 (昭和)45年、46年の間にNHK職員の給与の増額率は18%になっているのに、国内放送費は8.1&しか上昇していないわけです。と言うことは、制作を取り巻く諸経費を節約なさっているということになるんではなかろうか。それは出演料、著作権料あるいはその他の給与が非常に悪いんてばはなかろうかというように考えるわけです。(中略)やっと47年になってタレントさんの出演料最低額も3000円から4000円に引き上げれたそうだが、NHKの見解は?

坂本朝一参考人(NHK理事) われわれも鋭意改善に努力したいというふうに考えて現在もそれらの諸団体と交渉を進めている次第でございます。

青島幸男君 いまどき、職安で調べとも日雇い労務者を1日3000円以下で雇うことは不可能だそうです。職員の給与だけは18%も引き上げて、番組は職員とプロデューサーだけで作っているとでも思っていらっしゃるのですか。(以下略)

という具合でした。では、このデータを青島議員はどうやって手に入れたのでしょうか。いうまでもありません。日俳連副理事長、久松保夫氏作成のものだったのです。

こんなことも影響してか、紫水会は、1973(昭和48)年5月18日になって、内容証明による回答を郵送してきましたが、その内容は驚くべきものでした。何と (1)過去において締結した出演契約は各相手方との合意に基づくものであり、その後の使用についてもクレームはなかった点からしても、日本語版をどう使用しようが自由である (2)この主旨に反対の方は具体的契約時に具体的相手方として申し出ること、となっていたのです。

この回答を、当然、不服とする日俳連と紫水会との間では、その後もやり取りがあったのですが、双方の主張は繰り返しになるので、ここでは省略します。ただ、日俳連としては、新しく施行されたばかりの著作権法の解釈に関して、初めて、公式見解を示しましたので、その点だけは記録に止めておくことにいたしましょう。

その公式見解とは

  1. 実演家は、「著作隣接権」によって、録音・録画権を専有しています。つまり、実演家自身が録音・録画を許可したり、しなかったり出来る権利です(第91条)。
  2. 実演家の許諾を得て、実演を録音・録画した製作者は、その許諾にかかわる利用方法および条件の範囲でしか、録音・録画物を利用することは出来ません(第63条、第103条)。
  3. 従って、実演家が録音の許諾を与えるとき、利用方法と条件を提示すれば、製作会社はその条件を遵守しなければなりません。また、その利用する権利は、実演家の承諾を得ない限り、他に譲渡することも出来ません(第63条3項)
  4. もし、この条件に違反して製作会社や配給会社が日本語版を利用すれば、著作隣接権の侵害となり、著作権法の違法行為になります。

でした。

このように明解な見解を示しても、紫水会や山水会の態度を変えることは出来ませんでした。コストの上昇を極端に嫌い、俳優との真摯な話し合いすら拒否するような態度が続いたのです。

「こうなったら実力行使に出るしかないではないか」

こんな空気が俳優たちの間に流れ始めたのは、先の俳優集会が終わってから約2ヶ月が過ぎた頃でした。

フジテレビの長寿アニメ番組「サザエさん」で父親、波平役を長年続けている永井一郎氏は、日俳連と紫水会、山水会が対立していた頃の日俳連内の動きを克明な日記に残しておられます。それによると、対立し、膠着してしまった事態を打開するために何らかの示威行動を起こそうとの意見が日俳連の外画・動画等対策委員会(外対委)で提案されたのは1973(昭和48)年5月26日のことでした。当事者だけの交渉では埒があかないのなら、一般の人々の理解を得、製作者側の理不尽を正して行こうとのアイディアだったのです。このアイディアは綿密な討議と計画によって具体的に立案され、同年7月28日の都内デモ行進へと結実して行きます。当時、デモ立案の討議に積極的に参画したのは、大宮悌二氏、矢田稔氏、矢田耕司氏、渡部猛氏、永井一郎氏、肝付兼太氏、羽佐間道夫氏、それに事務局長の村瀬正彦氏などでした。

1973(昭和48)年7月21日、渋谷区勤労福祉会館では「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会第2回」が開催され、170人が集結して、デモを主体とした統一行動とそれに向けてのカンパ活動、さらには裁判闘争も辞さないとの方針が決定されます。中でもカンパ活動への具体的な提言をしたのは羽佐間道夫氏でした。

俳優による初のデモ、そして24時間出演拒否へ

梅雨明け直後の1973(昭和48)年7月28日、東京の空は見事に晴れ渡り、真夏の厳しい太陽が照り注ぎました。再び、永井一郎氏の日記を紐解いてみましょう。

「○俳優単独による歴史上初のデモ、成功!! 参加200人以上。六本木三河台公園 ― 溜池 ― 虎ノ門 ― 新橋 ― 数寄屋橋 ― 東京駅八重洲口前 ― 国労会館。

  • デモ後、抗議各所に散る。東北新社前には60人くらいが集まる。
  • 肝付(兼太)組織部チーフを中心に加藤(治)、立壁(和也)のオルグ成功。
  • 井上真樹夫、チラシや注意事項のビラ等作る。
  • 警察との交渉は飯塚(昭三)に一任される。彼は炎天下何度もデモコースを歩く。
  • 看板は諏訪孝二が徹夜する。
  • 傘文字は永井夫妻が徹夜。
  • 宣伝用録音テープは村松(康雄)と水鳥鉄夫が多くの俳優の協力を得る。
  • 宣伝カーは島田彰が借りてくる。野本礼三が運転。
  • 多勢の俳優が各々その長所を発揮してフル回転する。
  • デモの朝、若い吉田理保子がオニギリを作ってきたことなど忘れてはならない」

こんな記述が残されています。緊張した空気の中、協力しあって大きなイベントに立ち向かった様子が伝わってきます。なお、この日の行動は午前10時15分のスタート。抗議を終えたのが午後2時と記録されていますから、さぞや暑い暑い行動だったことでしょう。抗議に出向いた先は、東北新社、ニュージャパンフィルム、千代田スタジオ、グロービジョン、日米通信、オムニバスプロモーション、NHK、TBS、東京12チャンネル(現テレビ東京)でした。

1973(昭和48)年9月7日付けの「日俳連 外対委ニュース」No.9には、その日の一連の行動が掲載されています。

「要望書」を持参した代表団は各社で懇談、俳優の怒りに対する各局の反応を肌で感じることができた。

「役者風情になにができるか」とたかをくくり、私どもの声に耳を貸そうとしなかった民放各社は、ついに怒った俳優が一つの目的に向かってこれほど早く、これほど強く結束し、これほど思い切った行動に出るとは思ってもいなかったようである。無力と信じ込んでいた俳優の意外な結束に困惑をかくしきれず、各社とも「商法上、契約には何の落ち度もない」と繰り返しながらも「前向きに善処する」と答えざるを得ない状況。訴訟並びに動画へのエスカレートには各社とも極めて強い反応を示し、訴訟は大変困ること、動画へのエスカレートは番組編成上の大問題であることを訴え、実情を調べて何とか善処したいので、いま少し時間をくれと要請する始末。民放五社は直ちに連絡会を持ち、対策の協議を始めた模様で、強く業界を揺さぶった7・28統一行動の成果は高く評価されなければならない。

一方、翌7月29日には、デモと抗議行動に関する総括のための外画・動画等対策委員会が開かれました。出席者からは、いくつかの反省点が述べられたのですが、例えば「絵になる人物の出席が必要である」「スケジュール及び行動内容について早く教えてくれ」「シュプレヒコール、プラカード、ゼッケンを考えるべきであった」など、何時の時代も変わらぬ行動の問題点だったと言えるでしょう。

この日には、発足間もない日俳連も都市センター会議室で全国理事会を開催しており、外対委からのデモの報告を聞いた副会長の毛利菊枝氏は「当理事会としても、初の喜びだった」として、多額のカンパをくださったと、同じ「外対委ニュース」は伝えています。デモと抗議行動を中心に行われた第1次統一行動に引き続き、大々的に展開されたのが8月8日の「24時間出演拒否」の第2次統一行動です。

第1次統一行動によって、俳優の中に闘いの気運は高まっていました。しかし、そうした燃えさかろうとする火に油を注いだのは音声製作会社の中では、当時、最大手であった東北新社の社長であり、紫水会の会長でもある植村伴次郎氏の発言だったと言えるでしょう。週刊明星のインタビューに応えた植村社長は「役者などは無能であり、次から次ぎに生まれてくる使い捨ての商品みたいなもの」と発言し、俳優の激しい怒りを買ったのでした。

怒りが激しければ、その分だけ行動は早くなります。8月4日にマネ協と外対委との合同会議をしている最中、久松保夫氏は突如として24時間の番組出演拒否闘争を提言し、これが多くの同調者を募ることになったのです。また、出演拒否という急先鋒な闘争をすることの有効性について、永井一郎氏は、確実な情報をつかんでいました。それは「ゴールデンタイム枠の外国映画では、現在の制作費でもキャスティング費を4倍に引き上げることが可能だ」ということです。そして、この見通しから「引き上げる見通しがある今こそ、大いに闘いを強化する必要がある」と主張したのでした。出演拒否の実施は8月6日に開かれた外対委の深夜に決定されました。

闘争方針が決定してから実施に移るまでの動きも実に素早いものでした。わずか34時間の間に人員配置、印刷、小道具製作、集会場設定、警察への届け出でが完了し、新聞記者への発表も準備されました。人員配置の中には当日番組の収録が予定されているスタジオでのピケ隊も入っています。「決行!! 24時間の出演拒否」と書かれたプラカードの下に結集した組合員の強い意志によって7本の番組収録が完全に不能に陥ったのでした。

8月8日、再び示威行動を行うために東京・青山の高橋是清記念公園に集結した組合員は187人に達しました。近くには東北新社の本社があります。集まった人達は、隊列を組むことなく、三々五々東北新社へと向かい、村瀬正彦氏を中心とした抗議団が植村社長に会見。俳優の要求を訴えたのでした。

出演料3.14倍に増額し解決へ

植村社長のハラには、ある解決策が醸成されていました。単に俳優と製作会社が敵と味方に分かれて対峙するのではなく、手を携えて放送局に当たり、出演料の増額を実現しようという構想です。先に、永井一郎氏が「出演料は4倍近くは引き上げられる」と読んだのと同じ見通しを持っていたのです。このため、植村vs永井の個別会談が解決の糸口を導き出すことになります。

8月13日のことでした。TBSの番組「いじわるじいさん」を収録中の永井氏のところへ植村社長から「仕事が終わったら話がしたい」との電話が入ります。

では、その日の永井氏の日記から

植村社長より、仕事が終わったら話がしたいと連絡が入る。社長の応接室に通される。立派なものである。

「お前らメチャクチャするし、俺はどうすりゃいいんだ」

と社長がいう。

「植村さん、あなたは成功した。財をなした。もう一息で尊敬されていいところだ」 「俺は会社のことを考える。俺は社員のことを考える」

「当然じゃないですか。その点、あなたは立派だ。しかし、会社のためになれば、後はどうでもいいのですか」

さらに私は言う。

「業界全体が陽の当たる場所に出なければならないんじゃないですか」

「どうすりゃいいんだよ」

「簡単なことです。あなたには力があるんだから、日俳連の舟に乗って業界の正常化に立ち上がればいい」

「具体的にどうすればいい?」

「日俳連との交渉を再開し、山水会が何を言おうと、日俳連と紫水会とでどういう条件で仕事をするか決めればいい。紫水会の他のメンバーはあなたについていくしかないと思います」

「だからさ、もっと話し合おうよ」

植村社長はしきりに裏交渉をしようという。

「いいですよ。でも、一度は公式のテーブルに着いてください。一日、正式な交渉が出来れば、あとはいくらでも実のある話し合いが出来ます」

植村社長はしばらく考える。

「よし。わかった。近いうちに形にする」

こうして、交渉の目途は立ったのでした。交渉が具体的に緒に就くのは、出演拒否の実力行使からちょうど1ヶ月を過ぎた9月8日のことです。この日を皮切りに、さらに10日~12日まで、新橋の藤田ビル5階にある芸団協の会議室に集まった紫水会加盟7社の社長と日俳連側の交渉委員(久松保夫氏、江見俊太郎氏、村瀬正彦氏、大宮悌二氏)は、次の7項目での合意を見たのです。

それは
1.日俳連と製作各社は、業界の正常化と公正なルール確立のため、共同で対処する。
2.日俳連提示の覚書案は、引き続き、継続審議し、合意に達した条項から逐次発効させる。
3.覚書案中、録音物の利用の範囲等権利問題に関連する条項については、放送局、映画配給会社、動画製作会社を加えた別の場で審議し、誠意ある結果が得られない場合は、共同で対処する。
4.出演料については
(イ)基本料金 現行の1律50%アップ、ただしアニメ吹替料は1律現行の70%アップ
(ロ)長時間割増 30分を超える30分ごとに50%加算(現行20%)
(ハ)放送使用料等 出演料(長時間割増を含む)の60%加算
以上により、倍率は現行の平均3.14倍となる。
5.本合意書の有効期限は2年間とする。
6.日俳連の俳優が本合意書の相手方製作会社以外(個人のプロデューサーまたはディレクターによる制作を含む)に合意書の内容に故意に違反して出演したことが明らかになった場合は、本合意書の効力を失う。
7.製作会社は、日俳連所属以外の俳優に対し出演を依頼する場合は、日俳連に加入するよう勧誘する。
ここにおいて、日俳連史上、画期的な出演料大幅アップの基本合意が成り立ったのでした。合意書は10月15日に調印。1974(昭和49)年1月1日から発効となります。

芸団協・芸能人年金の発足

日俳連の直接関わる事業ではないのですが、「芸能人年金」の発足については簡単に触れておかねばなりますまい。1973(昭和48)年1月20日付けの毎日新聞が「わが国の芸能史上画期的なこと」と記しているように、概ね経済観念にうとく、いつもバラバラ、といわれる芸能界に私的年金が制度として確立されるのは「大変な」出来事だったのです。 この制度がスタートしたのは、この年の4月1日。確立に当たっては2年にわたる研究期間と準備期間が必要だったのでした。そして、この研究期間中、エネルギッシュに芸団協を引っ張ったのが日俳連理事の大宮悌二氏だったのです。「公的な福祉システムの恩恵に浴すことができない芸能人であればこそ、自らの力で制度を構築しなければならないのだ」が持論だった大宮氏は、自分の家族から不評を買うのも顧みず、連日夜遅くまで芸団協の事務局に残っては新システムの開発に全力を傾けたのでした。

スタート直後の芸能人年金の仕組みは次のようなものでした。

  • 掛け金は1口(1ヶ月)1000円で、100口まで自由
  • 年金受給は65歳から終身で、口数×加入期間による金額
  • 積立年金は(1口として)、最短5年掛けで年額7320円。最長48年掛けで28万7640円。
  • 栄誉年金は、加入者一律年額2万4000円(口数に関わりなく)
  • 休業手当は、14日以上の病気、ケガに対し、1日1000円(77日まで)
  • 傷害見舞金は、10万円
  • 弔慰金は、2万円

年金のスタートに当たり、女優の森光子氏は6月11日付けの読売新聞紙上で「“旅路の果て”という映画で俳優の老後の惨めさを知り、かねがねこういった制度ができることを願っていました。舞台に出ていると一瞬のタイミングでヒヤリとしたことがたびたびだったので」と語っています。

設定された掛け金、保障は公的年金などに比べて恵まれたものでした。だから、翌74(昭和49)年1月29日付け毎日新聞が伝えるように、8ヶ月の間に1000人以上、約4000口の加入を記録するほど人気を得ました。だが、この高保障が後々には負担となり、バブル経済崩壊後の1995年以降は、制度に修正また修正を加えなければならないことになります。