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1974年・1975年 | 日本俳優連合30年史

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1974年・1975年 | 日本俳優連合30年史

-1974年- 新たに取り組む映像対策

1974(昭和49)年は「狂乱物価」という名の嵐が吹き荒れた異常な年でした。その前年10月、エジプト・シリア連合軍とイスラエルが交戦する局地戦に端を発し、第4次中東戦争が勃発。その影響を受けて中近東地域の産油国が一斉に原油価格を4倍にも値上げしたため、電力、ガスをはじめとする産業界のコストが急上昇。約1年にわたってあらゆる物価が暴騰したのです。所謂オイル・ショック。それに伴う「狂乱物価」でした。これを機に国内には、かつての太平洋戦争最中を思い出させるような節約ムードが漂うようになり、繁華街のネオンも消されるようになりました。

また、小売業者は値をつり上げるために商品を貯蔵したまま店頭に出さないという行為にもでました。スーパーマーケットの店頭からトイレットペーパーが消えてしまうとう騒ぎがマスコミを賑わしたのもこの年の出来事でした。

この騒ぎは、当然、俳優たちを泣かせました。一般産業界の労働者が74年の春闘で1ヶ月当たり3万円の賃上げに成功している中で、俳優の出演料アップは放送局の収益鈍化を理由に増額が見込まれなかったからです。制作費の実質切りつめにより、キャスティングにも日俳連のアウトサイダーを登用したり、外画動画部門でも二重配役を大幅に増やしたりして、俳優の仕事を圧迫しました。前年に3.14倍という画期的な出演料のアップを獲得しながらも、現実には一部の例外層を除き、おおかたの収入はダウンまたは横ばい状態になっていました。

しかし、俳優の収入の低さは激しいエネルギーとなってNHK、民放への要求突きつけとなって表れ、やがてはそれが翌年の基準出演料上限の大幅引き上げとなって充実します。

この年、7月18日、暫定的に設置されていた日俳連役員会の初代会長、宝生九郎氏が急性心不全で死去されました。宝生氏は17代の宝生流宗家であり、日本能楽会会長、能楽の無形文化財でもあった方です。7月28日に開催された日俳連の第2回全国大会では、後任問題が検討されましたが、会長代理を佐々木孝丸副会長にお願いすることにし、当面は空席ということにしました。

さて、こうした環境下、日俳連が新たに取り組もうとしたのが映像部門対策です。対策の進め方としては、日俳連内に「映像対策委員会」を設置し、その中に 

(1)映画5社部会
(2)本編、テレビ映画部会
(3)スタジオ・ドラマ部会
(4)CM部会
(5)関西綜合部会の5部門を置く形で行い、当初は(社)日本映画俳優協会、(社)日本喜劇人協会との連携で全国統一した要求作りに向けて前進することを目指しました。

また、契約問題に関する俳優、マネージャー向けの啓蒙活動にも乗り出しました。とかく製作会社からの一方的な申し出によって、本来俳優側が「固有の権利」として確保すべき権利をすべて取り上げられてしまっている実態を打破しようという考え方です。俳優と製作会社との契約は、現行著作権法の施行時から俗に「ワンチャンス主義」といわれ、最初の契約の時に全てを決めてしまう方式になっています。従って、出演依頼を受け、最初の話し合いに入ったときには

「放映はテレビだけですね。使用期間は○○年でどうですか。ネットは何局になりますか。使用期間を過ぎた後のネット(地方局売り)やリピート放送の時は、お話し合いができますね。その時の追加支払いは○○%で如何でしょうか」

ぐらいのことが言えるようにしておこう、という運動です。1974(昭和49)年9月1日付けの「放芸」(第51号)には、この啓蒙方針が縷々記述されています。

この動きは、さらに年末にかけ、一層具体化し、放送にかかわる製作者サイドへの要求提出となっていきます。年の瀬も迫った12月17日に開かれた拡大常任理事会で映像対策としての統一要求案を作成した日俳連はこれをマネ協と新劇団協議会との意見調整にかけ、12月25日、NHKと民放キー局に申入書として提出したのです。

内容を列挙しておきましょう。

NHKに対する要求の主なものは

  1. 「ランク格付け」を見直し、上限ランク(3万円)を撤廃すること
  2. 最低基準出演料をテレビ9000円、ラジオ8000円にすること
  3. 俳優の基準出演料を1律50%以上増額すること

民放キー局に対しては

  1. 最低基準出演料をテレビ1万円にすること
  2. 基準出演料を1律5000円増額し、個人別ランクの適正化をはかること
  3. 時間割増率を30分増すごとに50%に統一実施すること

そして、下請け制作プロに対しては

  1. スタジオドラマの出演料、時間割増率、リピート放送料等を局制作ドラマに準ずること
  2. 支払期限を短縮すること
  3. テレビ映画について基本拘束日数、日数オーバー手当、利用目的の限定、利用期間、リピート料等について協議に応ずること

でした。

所得保証保健の導入

この年(1974年)にもう一つ特筆すべきことは、組合員向けの「所得補償保険」が導入されたことでした。大正海上火災保険(現・住友三井海上火災)と提携し、放芸協の組合員ならびにその家族のために、とくに、設計されたプランに基づく保険でした。

因みに、当初の保険の内容を紹介しておきますと、掛け金は1口、1ヶ月2000円。月額補償額は性別、年齢によって異なるが、50歳の男性を例にとると約5万5000円。ケガでで死亡したときは月額補償額の100倍の一時金が支払われ、そして、事故がなかった時は無事故戻しとして掛け金の20%が戻されることになっていました。

この保険を導入するに当たっての佐々木孝丸理事長の談話。

「芸能界に働く私たちの生活保障をどうするか。いつも悩みの種であったが、この保険の出現によって悩みが解決されたと言える。私自身第1号で加入するつもりだし、多くの会員の方にも加入されるようお勧めします」

-1975年- 入場税法の改正実現

この年4月1日から「入場税の一部を改正する法律」が施行されました。何のことだか分かりますか? 正確なことについてはこれから説明しますが、事実上入場税撤廃の効果がある法律の施行となったのです。

映画鑑賞や芝居見物に税金が掛かるなんて、文化先進国を目指す国民にとって、実に理不尽なことと言えるでしょう。芸団協ではこの税制度の撤廃を求めて、長年、運動を展開していきましたが、その成果がやっと現れたのでした。

新しい法律の成果は、それまで100円だった免税点が、映画の場合は1500円に、舞台の場合は3000円に引き上げられたことです。つまり、映画を見に行った場合は、それまで100円以上の入場料を払うと税金が掛かったものが、この年からは1500円以上の入場料に税金が掛かるということに、舞台の場合は3000円以上の入場料にのみ税金が掛かる仕組みに変わったのでした。この当時、1500円以上する映画や3000以上もの入場料を取る舞台公演はほとんどありませんでした。だから、事実上、入場税は撤廃されたと言っても過言ではなかったのです。入場者の増加が芸能界の発展に直結することは、敢えて説明するまでもありますまい。入場税の完全撤廃を望んでいる芸能界にとっては、一つのステップに過ぎないとはいえ、大きな朗報だったのでした。

基準出演料の引き上げ

前年末、日俳連、マネ協、新劇団協が連名で提出した要求に対して1975(昭和50)年4月14日、NHKから回答が示されました。

懸案であった基準出演料の上限撤廃の要求については、撤廃は実現されませんでしたが、TVの上限3万円が5万円に、ラジオ2万5000円が4万円にそれぞれ引き上げられることになりました。従来、別途契約などで高い出演料を受け取っていても、リピート放送料算定になるとTV3万円、ラジオ2万5000円で頭打ちとされていたのですから、かなりの改善が実行されることになったのでした。

また、最低基準出演料では、それまでのTV6000円が7000円に、ラジオ5000円が6000円にそれぞれ1000円ずつアップされました。それと注目すべきは、出張などの際の宿泊料が各ランクごとに1律1000円増額加算となったことでした。これにより、宿泊料の上限は7000円に、最低でも5500円が確保されることになりました。

NHKに遅れること4ヶ月、8月にはいると民放キー局5社からの回答も示されました。それまで、新人の出演料の目途として6000円を設定しながら、極めて曖昧な基準としていたものを、明確に最低基準出演料とし、金額も8000円に設定したのです。それに、出演料体系自体の曖昧さにも改善の手を加えることになり、「出演規範確立のための作業」を2年間を目標に行うとの約束が取り付けられました。

これらNHKと民放キー局の回答は、俳優の直面する要求内容との比較では、必ずしも満足のいくものではありませんでした。ただ、そうは言っても、放送局側が一定の、しかも合理的なルール作りに取り組もうとの姿勢を示してきたという意味では画期的なことではあったのです。

放送局外の制作ドラマへの対応

前年、テレビで放送される映像に関わる諸問題解決のために設置された「映像対策委員会」が具体的に起こした行動の第一弾は、所謂下請け製作会社で制作される「テレビ映画」対策でした。現行の著作権法が「映画の著作物」の特別扱いを認め、出演する実演家の権利を大きく制限する規定を設けたことから業界には混乱が起き、それは後年、ずっと尾を引くことになります。その典型が「テレビ映画」でした。放送を目的とし、形式は放送事業者であるテレビ局が自ら制作するドラマと何ら変わりがないのに、別会社が下請けする形で制作するが故に「映画」扱いとなり、リピート料やネット料の適用を免れてしまうという実態です。これには俳優は言うまでもなく実際に出演契約を取り交わすマネージャーたちも納得できません。

また、この混乱に拍車をかけたのが収録技術の進歩です。1960年代前半にはテレビドラマといえば生放送だったものが、その後下請け会社による収録ではフィルムが使われるようになり、1975年以降はVTRによる収録が激増していくのです。そして、このような技術進歩に乗じて出演料を値切ろうとする会社が現れます。

日俳連「映像対策委員会」がその活動の第一弾として取り上げたのは、テレビ映画の制作会社としては有力企業であった国際放映の作品「マチャアキ森の石松」でした。フィルムを使用しての収録時と全く同じ出演条件を俳優に求めていながら、VTRを使用しているからというだけで出演料をランクの50%相当額に押さえ込もうとするのですから、文字通り、理不尽としか言いようがありません。日俳連(二谷英明専務理事)、マネ協(垣内健二理事長)、新劇団協議会(片谷大陸代表幹事)は三者連名で、1975(昭和50)年8月20日、国際放映の安部鹿蔵社長宛に、問題解決のための話し合いを文書を持って申し入れたのでした。

第一回芸団協芸能功労者

芸団協が主宰する「芸能功労者の表彰」は、

  • 永年にわたり芸能の道に精進し、芸能の発展向上に寄与した者
  • 芸団協の正会員団体の構成員でその団体の発展に著しく貢献した者
  • 正会員団体の構成員以外で芸能活動の発展向上にとくに貢献した者

(以上、表彰規定第2条)に対し、年1回、若干名を選んで行うものです。最近では毎年5~6人の方々が推薦され、審査された上で表彰されていますが、第1回では、実に26人にものぼる方々が表彰され、日俳連からも佐々木孝丸氏、甲野純平氏、毛利菊枝氏、森光子氏の4人が表彰を受けました。