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Japan Actors Union

1980年 | 日本俳優連合30年史

約8分
1980年 | 日本俳優連合30年史

-1980年-

日本が「経済大国」と呼ばれるようになったのはこの頃から、と言っていいでしょう。何せ、自動車の年間生産台数が100万台を突破し、世界一になってしまったのです。そのことが幸であったか不幸であったか、それはその後の推移が物語ってくれます。

新日本俳優連合第1回総代会

1980(昭和55)年3月17日に通商産業省(現経済産業省)より「協同組合 日本俳優連合」の認可が下りてから、日俳連として初(放芸協では通算第13回)の総代会が、1980年5月29日、東京・新橋の芸団協会議室で開催されました。新しい組織になって加盟した者約2500人、うち放芸協から引き続き加盟している者約900人。新組織の最大の役割である俳優の出演条件の改善に向けては、すでに定着してきている「三団体統一方式」すなわちマネージャー協会、新劇団協議会、日俳連の緊密な連携によって統一要求を製作者側に理解してもらう方式を貫くことでした。総代会に提案された「事業計画書」によると、次のような記述が残されています。

「この組合は、わが国の俳優の芸能生活の土壌に相当程度にマッチした、なおかつ世界にも類のないユニークな組合として定着するに至るであろう。本組合は、すでに協同組合として日本俳優連合と名称変更され、法人登記も完了しているが、“放芸協”はすでに昨年(1979年)5月の第12回通常総代会においても、なお任意団体として存置し、社団法人日本芸能実演家団体協議会(略称・芸団協)内の一員として、また“放送出演を主たる業とする者”の協会として活動することが確認されているので、放芸協会員を兼ねる約900名の組合員は、この光栄ある事業を成功裏に完結させ、日俳連の中にあって絶えず先進的な役割を果たし続けてきた誇りあるグループとして引き続きその使命を自覚し、それを貫き通さなければならないことは言うまでもないところである」

そもそも、「四つの連合構想」を基に発足した日本俳優連合が、結果としては、放芸協を引き継ぐ形になってなってしまったところに執行部としての複雑な心境があったのでしょう。本来、「四つの連合構想」は、各連合が(社)芸団協の外にあって権利問題の解決を求める人々が各分野の連合に結集することを目標としたものでした。しかし、同じ俳優団体でもそれぞれに抱えている問題は違います。この各種の問題が日本俳優連合に統合することによって有効な解決を見ることが出来るのか…。こういった問題の討議が積極的に行われなかったために、意外に、組合員数が伸び悩んでいたのでした。

そのため、初年度の具体的な事業への取り組みとしてA期中に、日俳連会員中、未だ組合員になっていない者約1600人の全員加入を目標とし、さらに未組織の俳優等に働きかけて、まず3000人参加の組合への発展を図るB外画動画部会のほかに映像部会の設置及び関連部会の設置を検討し、「部会、委員会活動規約」の設定を行うC団体協約締結委員会を組織し、NHK、民放、とくに民放との出演条約細目の取り決めを行うとともに、地方組合員の処遇改善に取り組む。また、放送用動画のリピート料支払い協定の締結については、映像部門対策の第2段階として断固これを推進、貫徹する、などとしました。「何よりも新組織の人員増強と団結強化を優先しなければ」の心意気が伝わってくる事業計画でした。

放送用アニメのリピート料支払いを強く求める

アテレコを主体とした外画動画部会関連の条件改定問題は、1973(昭和48)年のデモ行進と24時間出演拒否闘争によって勝ち得た所謂出演料の3.14倍獲得、それに1978(昭和53)年の「外画日本語版のリピート料」問題の解決と着実な成果を挙げてきました。しかし、まだ残されている大きな問題として「放送用動画のリピート料支払いと制作実態の改善」があったのです。外画日本語版と同様、放送用アニメーションに関してはリピート料を支払うこと、出演料に関し、最低1000円のランクアップを実現すること、ゴールデンタイムの出演料等「出演料実務運用表」の内容を改定すること、などが俳優側の要求です。

外画動画部会は、1980(昭和55)年6月28日、東京・麹町の食料会館ホールに233人にものぼる部会員を集めてアニメ製作に関わる条件改定の決議をしました。そして、7月28日には、要求を世論に訴えようと総決起街頭デモに打って出たのでした。7月28日と言えば、7年前の1973年、「出演料大幅改善」を求めて初めてデモ行進に踏み切ったあの日と同じ。奇しくも条件改定の闘いは同じ経過を辿って設定されたのでした。このデモ行進には230人もの組合員が参加し、合わせて開催した総決起集会では決議文を採択して、民放の在京キー局に送付しましたが、その内容は次のように激しいものとなりました。

「私たちは知っている。今年(1980年)3月から6月までの間、在京民放5社のアニメリピート率が平均68%、最高の局では75%に達していることを。そして、在京民放キー4局の税引き純利益が30億円ないしは55億円という莫大な額にのぼっていることを。動画製作者の多くが口をそろえて経営の困難を訴えながら、高額脱税で国税庁の摘発を受ける会社があったり、すべての動画製作者が手持ち作品の厖大な地方局売り――これも即リピート放送にほかならない――をおこなっていることを。しかも、私たちにはビタ一文のリピート料も支払われていないことを。このため多くの仲間が生活権を脅かされていることを。週20数本も放映されているアニメ番組の大部分が(声の収録時には絵が仕上がってなく)白みや線画にアテレコする不正常な収録であることを。

私たちの要求は、次の3点である。

1. 業者は放送用アニメのリピート料を支払え!
2. アニメの製作実態を改善し、その正常化をはかれ!
3. 放送局は、アニメの制作費を大幅にアップせよ!」

映画撮影所の「引雑与」改定問題

「引雑与」とは、映画出演の関係者でしか分からない特殊用語でしょう。要するに撮影のために出張してきた俳優の宿泊費のことなのですが、宿泊旅館に支払う実費ではなく、支給はギャラ扱いで源泉徴収税を差し引いて渡されるという奇妙きてれつなものでした。しかも、それが常識をはずれた低額。東映京都撮影所を例にとると、1980年時点で俳優一人当たり1泊の引雑与は1350円というものでした。この年に京都で1泊1350円の旅館など存在するはずがありません。俳優たちは、マネ協、劇団協との統一要求として、これを最低3500円に引き上げるよう要求しました。だが、……。

帰ってきた応えは、この引雑与すら廃止、つまり宿泊代は支払わない、だったのです。日俳連、マネ協、劇団協の3団体は、1980(昭和55)年4月4日、東映京都撮影所に対し「引雑与の廃止」撤回と3500円への引き上げを重ねて要求。同年10月シリーズから、取りあえず2000円への引き上げ、早い時期に3500円まで引き上げるとの回答を得ました。

ところが、実際には長年にわたって放置されたまま、引き上げが実施されたのは1992(平成4)年4月1日にクランクインする作品からでした。12年も待たされたあげくの引き上げ。ただ、東映京都撮影所も極めて長い据え置きを気にしていたのでしょう。引き上げは倍額の4000円になりました。この額は、現在も変わりありません。しかも、10%の源泉徴収税が引かれますから、実質手取りは3600円です。こんな低額で泊まれる施設があるでしょうか。

アメリカでの俳優の大ストライキ

欧米諸国では、日本以上に、俳優の舞台、映画での活躍が活発であるはずなのに、その実態はほとんど伝えられることがありません。日俳連でも俳優の待遇改善を要求するに当たり「外国ではどうなってんの?」との疑問が出されるようになっていた折り、アメリカからの情報がもたらされました。それも、アメリカでは俳優がストを敢行して待遇改善を実現したのだというニュースだったのです。

アメリカにはSAG(映画俳優組合)とAFTRA(アメリカ・テレビラジオ芸術家連合=ただし、ミキサーのような技術者も含む)という実演家による二つの大きな労働組合があります。SAGは約6万人、AFTRAは約4万人と会わせて10万人にも達しようという巨大組織で、広いアメリカの全国を統合しているところに一大特徴があります。SAGには、かつて、ロナルド・レーガン氏という委員長がいました。誰でもご存知のように、後に共和党選出の大統領となる大物委員長でした。大統領にもなるほどの政治力のある委員長がいれば、組織力も闘争力も強大になるでしょう。この強力な労働組合が実施した闘争とは…

1980(昭和55)年7月末から10月までの2ヶ月にわたって、二つの労組はモーション・ピクチュア・インダストリー(映像関係経営者団体)から次のような協定を引き出したというのです。

  1. 最低報酬の値上げを、今後3年の間に32.25%アップする。
  2. ゴールデンアワー時のラジオ放送時間の大幅増大、とくに1時間番組を37%増やす。
  3. その他の再放送料の30%以上の増額。
  4. 年金、医療保険等、社会保障の増額、歯科医療の補助制度の充実。
  5. 労働条件の改善。とりわけ労働時間の改善と超過勤務手当の増額。
  6. 人種、宗教による差別の撤廃。
  7. 未成年者の労働条件の改善。

1年遅れで届いたニュースとはいえ、アメリカでの俳優の闘争のスケールの大きさには驚かされたものでした。