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1981年・1982年 | 日本俳優連合30年史

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1981年・1982年 | 日本俳優連合30年史

-1981年- CM出演協定の締結

Jac(日本テレビコマーシャル制作社連盟)は、その名の通り、テレビで放送するCM制作会社の集まりです。加盟会社は、全国で、120社にのぼります。ところが、このJac傘下の製作会社が制作したコマーシャルが全国東映系映画館で上映する劇場映画の本編の一部として上映されている事実が、日俳連組合員の報告で明らかになりました。中には「80’アニメーション・ザ・ベストテン」なるアニメ映画にも組み込まれていました。

放送用アニメーションの目的外利用については、アニメ業界における「料金支払いのルール」として別途支払うことになっており、劇場での上映を目的とした転用も当然「目的外利用」とされていました。しかし、肝心のJacとの間では明確な取り決めや協定は締結されていなかったのです。

事態を重視した日俳連、マネ協、劇団協の三団体は、1981(昭和56)年2月20日、早速文書で「出演ルール」の確立に向けた協議を申し入れました。申し入れの具体的内容は

  1. 別掲リスト製作会社(テレビ・コマーシャル制作会社)において、俳優との出演契約の内容をチェックの上、目的外利用(劇場上映)料金の追加支払いを要するものについては、至急当該出演者またはその代理人(マネージャー等をいう)と協議し、措置するよう当該会員社に指示していただきたい。
  2. テレビ用CMの出演契約については、私どもは現状下においても、文書契約あるいは 出演慣行の形で実体上一定のルールが定着化していると見ておりますが、何分にも個々の出演契約の場合、その大部分が電話等による口頭契約に基づいているため多分に曖昧な部分なしとしないのが実際であり、そこから生ずるトラブルの発生も決して少なくありません。つきましては、この際、契約ルールの一層の明確化と関連書問題整備のため、業界の代表的団体として、私どもと具体的協議に入ることをお約束いただきたい。

の2点でした。

Jacは、この申し入れに対して文書回答を行い、同年4月10日、東京・四谷駅前のJac事務局にて日俳連、マネ協、劇団協の三団体との公式会談が行われて、問題解決に向け前向き対処する方向が確認されました。

放送用アニメの「出演協定」に調印

前年(1980年)7月28日、外画動画部会が総決起して放送用アニメのリピート料支払いを求めた力は、アニメの製作会社で構成する日本動画製作者連盟(略称・動画連盟=現・日本動画協会)の重い腰を動かすことになりました。同連盟の村田英憲理事長(エイケン社長)と日俳連の外画動画部会・交渉委員(久松保夫氏、村瀬正彦氏、大宮悌二氏、北村弘一氏、永井一郎氏)とによって1980(昭和55)年9月4日から始まった交渉は、11ヶ月をかけ、延べ11回も開催するという精力的なものでしたが、双方の努力が実って、1981(昭和56)年8月6日、同連盟、日俳連に日本音声製作者連盟(略称・音製連=現・音声連)を加えた三者会談で基本合意に達し、同年10月1日に協定締結、調印の運びとなりました。

「テレビ放送用アニメーション番組の出演並びに音声製作に関する協定書」と名付けられた協定には、細部にわたる取り決めが盛り込まれ、数字を伴う内容は付属協定書である「テレビ放送用アニメーション番組の出演に関する覚書」および「外画・動画出演実務運用表」に記載されました。内容を細かく紹介するのには多大の紙幅を要しますので省略しますが、主な内容は

  1. 協定は、動画連盟、日俳連、音声連の三者協定であり、アニメ業界全体に徹底が図られる。
  2. 最初の出演料による作品の放送利用期間は7年(筆者注、放送用アニメは最初の放送後7年間は放送局の使い放題で、リピート料なし)。ただし、1978(昭和53)年4月1日以降放送の作品に遡って適用。
  3. 期限外の利用料金は、「外画リピート放送料金表」をそのまま適用。
  4. リピート料の支払いは、動画連盟→音声連→日俳連のルートで1989(昭和64)年4月1日以降開始。
  5. 既存作品については、1971(昭和46)年1月1日から1973(昭和48)年12月31日までの3年間に放送された作品を対象にCの料金の50%が支払われる。ただし、支払いは動画連盟が音声連事務局に提出する作品リストに基づき、協定発効の本年(1981年)10月1日より適用該当作品ごとに開始。

というものでした。業界の健全化、支払いのいルール化、文書による契約の明確化という意味で、ここまではっきりしたものを作り上げたということは、画期的な出来事だったと言えるでしょう。だが、どの世界にもルール破りは存在します。動画連盟、音声連、日俳連の三者で仕上げたこのルールも、後に無視するものが出て、20年後には大きな訴訟が行われることになります。

-1982年- 久松保夫副理事長の死去

1982(昭和57)年6月15日、午後0時50分頃、芸団協の会議に出席されていた久松保夫氏が呼吸不全と心臓発作を併発して死去されました。1980(昭和55)年12月に初めて呼吸困難で入院されてから1年半、入退院を繰り返す療養生活でしたが、喘息、肺気腫、胃潰瘍といくつもの病気を抱えながら、芸団協の専務理事、日俳連と放芸協の副理事長兼務という重責の中で無理をされたのが主因だったのでしょう。享年63歳。惜しまれながらの他界に、芸能界全体が深い悲しみ覆われたのでした。

久松氏は、本名高橋寛、1919(大正8)年6月6日、東京・日本橋の縫箔屋の4代目として生まれました。旧制東京府立六中から青山学院神学部に進み、牧師を志しましたが、演劇の虜となって、1938(昭和13)年に中退、新築地劇団経営宣伝部に入団。翌年には演技部に移籍、俳優の道を歩むことになりました。1940(昭和15)年1月には坪内逍遙作の「役の行者」でラジオ初出演。同年3月には南旺映画「彦六なぐらる」で映画初出演を果たしています。1942(昭和17)年8月、東京宝塚劇場に技芸社員として入社、東宝演劇研究会第二次東宝劇団に所属、菊田一夫氏との知遇を得ました。戦後は、日本映画演劇労組執行委員として東宝大争議に関わったりしましたが、1949(昭和24)年には退社。以後、フリーの俳優としてテレビ、ラジオで活躍を続けます。代表作はTBSテレビ開局からの「日真名氏飛び出す」で、7年3ヶ月にわたり380回もの生放送をこなしたのでした。

芸団協、放芸協、日俳連での大活躍は本書の冒頭部分で記したとおりです。

制作プロの倒産が示した課題

「陽春の候、益々ご繁盛のこととお慶び申し上げます。

さて、すでに新聞報道等を通じてご承知の通り、私共三団体は、勝プロ、中村プロと相次ぐ倒産により多大の被害を受けております。勝プロ倒産時の俳優未払い出演料合計約9800万円は、まだ1銭も支払われておらず、中村プロは約1億3000万円の中の約20%相当額、約2700万円が支払われましたが、残額約80%に関しましては目下のところ全くめどのついていない状況でございます。

このような制作プロの倒産は、そもそも出演料自体が俳優及び所属プロダクション、劇団の従業員等の生活費の根源であり、労働賃金に準ずる性質のものであるため、まさに生活問題であり、その影響は想像以上のものであります。

私共俳優関連三団体は今後の制作プロ倒産の被害を最小限に食い止め、より豊かな番組製作環境を作り出したいとの念願に基づき、以下の通り提言致します」

これは、1982(昭和57)年4月8日付けで日俳連、マネ協、新劇団協が民放キー局13社宛に送付した「要請書」の要旨です。

民放各局は経営合理化の一環として、ドラマ制作の大半を全国25~26社の製作会社に発注するようになってきていました。所謂下請け制作の体制が出来上がってきたのです。下請けに発注しようとしまいと、放送局はスポンサーの意向に則った受注で番組編成に当たるのですから、世間一般に対して放送局としての責任があります。事実、番組の放送時には製作会社と一緒に放送局名も明示しているのです。ところが、製作会社が経営の失敗で倒産に追い込まれたりしますと、「発注費用は支払い済み」を理由に実演家などへの責任は回避しようとします。

1982(昭和57)年当時、放送局が下請け発注する製作会社に渡す制作費は、通常、60分レギュラー番組で1700~2000万円と言われていました。ところが、この金額が直接製作会社に渡るかというとそうではありません。放送局と製作会社の間にはメジャー系映画会社が介在し、企画、脚本、プロデュース、演出、営業等の名目でマージンを受け取ってしまいますから、実際に制作に当たる会社は残った金額でやり繰りをしなくてはならない事態に追い込まれ、窮地に立ってしまうのです。そして、最後のしわ寄せはメインキャスト以外の俳優、つまり脇役の人達やスタッフに寄せられてしまうのでした。

「要請書」の中に出てくる中村プロとは人気俳優の萬屋錦之介氏が実質的なオーナーの製作会社で、人気番組「鬼平犯科長」を制作していました。また、勝プロとは、これまた人気俳優の勝新太郎氏が経営していたものです。倒産時に中村プロが抱えていた俳優への未払出演料は約2750万円、勝プロの場合は約9865万円にのぼりました。

そこで、日俳連、マネ協、新劇団協の三団体は民放13社に対して「要請書」を送付したわけですが、要請の具体的な内容は次のようなものでした。

A:外注テレビドラマ番組の発注対象企業に対する事前調査を一層厳格に行い、万一事故を生じた際の放送事業者としての責任の所在を明確にしていただきたい。

B:テレビ局は、番組発注価格を引き上げていただきたい。去る昭和53(1978)年2月、放送番組関係団体による制作費アップの要求が出されたのは、諸物価、諸経費、スタッフ費、俳優費等の上昇に比べ、テレビ局の発注価格が相対的に低いため、弱い立場の者にそのしわ寄せが来てしまっている。

C:出演料支払い方法を正常化していただきたい。出演後5ヶ月~8ヶ月も経って支払われる事態は異常としか言いようがない。

どれも、至極当然な要請ですが、実際にはこれがなかなか実行されず、以後、20年も同様な事態が継続することになってしまいます。

「貸しレコード」が投げかけた問題点

1982(昭和57)年は「貸しレコード業」という新形式の商売が猛威を振るい、さまざまな問題点を浮き彫りにした年でした。前年(1981年)11月18日には、東京の日比谷公園野外音楽堂で全国レコード商組合連合会主催の「貸しレコード業絶対反対生活擁護総決起大会」が開かれたりもしましたが、新聞紙上では1ヶ月の間に100軒もの貸しレコード屋が開店していると報道されたほどの勢いで増殖が進んでいました。また、年間のレコードの賃貸は5000万枚にのぼるとの報道もありました。

日俳連がこの問題に恐怖を抱いたのは、このころ発売され、普及が進みつつあったVTR、ビデオディスクとの関連です。貸しレコードが許されるとなれば、貸しビデオディスクも許される道理となり、一旦収録がされてしまったが最後、永久に利用され得る録画がレンタル業者によって扱われることになってしまいます。それは放送局のリピート放送どころの騒ぎではなくなってしまうでしょう。日俳連では芸団協との協力の下、自民党の文教部会に設けられた著作権問題プロジェクトチームに働きかけて貸しレコード規制に向けての運動を展開したのでした。

しかし、規制に向けての動きは出てもレンタル業が時の流れに乗った新商売であることには変わりありません。心配されたように、一定の規制の下とはいえ、映画のレンタルビデオ店が全国に展開され、連綿と商売を展開するようになるのは、間もなくのことでした。

仇役親睦会の発足

1963(昭和38)年の放芸協発足以来、日俳連の設立を通じて、その中核をなしたのは放送出演者で、とくに声優たちの組織率は抜群でした。しかし、テレビドラマが盛んになるにつれ、映画俳優や新劇の俳優たちがテレビに出演する機会が増加し、マネージメント・プロダクションも271社を数えるほどになりました。

ところが、テレビ出演者が増加する割には、日俳連の組合員が増えてきません。そんなある日、東映の京都撮影所で仕事をしていた2、3人の仇役俳優が、昼休みに喫茶店で雑談をしていたときです。一人が言い出しました。「俺たち仇役って者は、みんなプロの役者なのに待遇がよくないナー」と。

それを聞いていた江見俊太郎氏は、ふと思いつきました。「そうだ、仇役だけの集まりを持ってみよう」。そして早速、日俳連組合員の名簿とマネ協タレント総鑑の271社を調べた結果、組合員が全くいないプロダクションが172社もあり、主だった俳優の未加入者は2508人もいることが分かったのです。「これは大変なことだ!」。江見氏は早々に主だった俳優に呼び掛けることにしました。そして出来上がったのが「仇役親睦会」です。

1982(昭和57)年10月30日夜、東京・青山の富丘会館で「仇役親睦会」は産声をあげました。集まったのは多々良純氏、須藤健氏、小林重四郎氏、外山高士氏、江幡高志氏、中里長吉氏、中庸助氏、船渡伸二氏、吉田豊昭氏、福山象三氏、森幹太氏ら28人でした。ドラマには悪役という役回りが必要になることが多く、またそれを専門のように演ずる俳優がいるものです。また、時代劇では善玉の敵となって、最後に斬られてしまう役回りもあります。そんな人ばかりを集めて気勢をあげる会が出来たのですが…、呼び掛けた江見氏の説明では「日俳連の組織化が遅々として進まないのに業を煮やし、少しでも人集めをと考えた結果」だったのだそうです。ですから、最初は仇役に限らず、脇役を主たる仕事とする人に広く呼び掛けたのだそうですが、結果が悪役系の方々が多くなったために会の名前も「仇役…」としたとか。

そして、この会では江見氏が作詞し、日俳連組合員の藤島正也氏が作曲した「仇役讃歌」が披露されました。どんな讃歌が生まれたのか。その楽譜を掲載しておきましょう。

しかし、この親睦会は、単なる親睦に止まることなく、次なる発展をもたらします。会の中から「仇役に止まることなく、広く俳優に呼び掛けようではないか」との意見が出され、名称も「映像対策準備懇談会」なり、翌1983(昭和58)年5月19日には芸団協に29人が集まって準備会。同年10月18日には「映像対策委員会」として活動するようになります。委員長を江見氏とし、委員長指名で高城淳一氏、玉川伊佐男氏、小笠原弘氏の3氏が副委員長に就任しました。