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1989年 | 日本俳優連合30年史

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1989年 | 日本俳優連合30年史

-1989年-

年明け早々の1月7日朝、4ヶ月余の闘病のあげく、昭和天皇が崩御されました。これにて「昭和」の元号は終わり、「平成」の時代へと移行することになります。

災害をなくすためのシンポ

1989(平成元)年6月23日、東京・千駄ヶ谷の国立能楽堂大講義堂で、芸団協主催、日俳連や日本音楽家ユニオンの協力によるシンポジウム「芸能の現場から災害をなくすために」が開催されました。1988年中にテレビ朝日系のドラマ「軽井沢シンドローム」撮影中の自動車による死傷事故、勝プロ制作の「座頭市」シリーズでの真剣立ち回りによる死亡事故が相次いで発生したのに続き、1989(平成元)2月10日には東京・調布市のにっかつ撮影所第5スタジオで火災事故が発生したのです。恐竜の鼻に見立てたウレタンセットから発火。スタジオ全体が炎と煙に包まれ、スタッフ1人が死亡25人が火傷やケガ、一酸化中毒で手当を受けるという大事故でした。撮影に参加していたタレントの藤谷美紀さんも巻き添えで軽いケガを負いました。このように事故が相次いでは、実演家としてじっとしているわけにはいきません。「災害ゼロに向けて…」「万一の場合は十分な補償を…」、そんな願いを込めてのシンポジウム開催でした。

開催の時期が時期だけに新聞マスコミの反応も敏感でした。掲載された記事の中からいくつかを拾ってみますと

「乗馬が出来ないにもかかわらず、監督の注文で馬に乗り落馬。24年間、後遺症に悩んでいる俳優、時代劇に慣れないアイドルと殺陣シーンを撮らねばならない殺陣師の困惑など危険と隣り合わせの実態が浮き彫りにされた。映画監督の千野皓司氏によれば、事故多発の原因は準備不足、予算不足、撮影日数の短縮、未熟なスタッフ、労働の過剰、製作会社の姿勢の低さにある。フリー全盛とテレビ映画の量産体制。人間の創造性が大きく関わる芸術、芸能分野にも及んだ合理化が技術の伝承やチームワークを失わせ、事故の頻発につながっているとの指摘である」

(89年6月30日付け 日本経済新聞)

「ドラマ以外でもねんざや骨折が多く、スモーク、レーザー光線などの影響が心配、と現代舞踊協会の代表が語り、武道館でのテレビ番組収録で演奏中に仮説ステージが落ち、けが人が出たにもかかわらず、局との関係を壊したくないという事務所にもみ消されたと音楽団体が訴えた」

(89年7月6日付け 東京新聞)

「日本女子大の佐藤進教授(労働法 社会保障法)は芸能人も出演契約上は労働者であり、労災補償の適用を受けて当然。文化・芸術を守るために、芸能人の生命と健康を保持する公的な社会保障を確立すべき時期、と強調しました。芸団協の大宮悌二氏(俳優・日俳連常務理事)は、若い人材を育てるためにも、芸能現場の改善は根本問題。芸能人が一生、楽しく働ける条件を作らないと日本の芸能は衰退する、と述べました」

(89年6月29日付け 赤旗)

といった具合でした。

このシンポジウムが開催されてからわずか50日後、今度はロケ撮影に向かうバスが川に転落、11人が負傷するという事故が発生しました。1989(平成元)年8月8日午前11時20分頃、京都市右京区の梅ガ畑谷山川西の林道で東映太秦映像のロケ用マイクロバスが「水戸黄門」シリーズの撮影現場に向かう途中、道路左側の川に転落、横転したのです。乗っていた伊吹聰太郎氏、川島なおみ氏らの俳優とスタッフ11人を合わせた30人が頭、首などに1週間から2週間のケガを負いました。

映画館の入場料割引制度

「映画を見て勉強したいけれど、入場料が高くて」という悩みは俳優に共通するものでした。そこで「何とか俳優や映画関係者の入場料割引が実現できないものか」の問題に取り組んだのが日俳連、映演共闘(映画演劇関連産業労組共闘会議)、映職連(日本映像職能連合)の三者で構成する映像三団体連絡会でした。日俳連からは常務理事の小笠原弘氏が中心になって、この取り組みに参画しました。交渉の相手方は全国興業環境衛生同業組合連合会(略称・全興連)という全国の映画館の興行主を束ねる団体です。

交渉は粘り強く行われました。割引の実施で営業収入の減少を心配する全興連側。片や俳優の福祉の一環として是非とも実現を図りたい映像三団体連絡会。そのせめぎ合いは、約1年間を費やしましたが、「日本映画産業、世界の映画全体の発展、はたまた俳優の勉強や映画関係者の向上に役立つなら」ということで全興連の協力が得られることになり、東京を皮切りに徐々に全国に広げるとの意向で、割引制度はスタートすることになりました。東京での実施は、1989(平成元)年10月1日。映像三団体で共通のカードを作り、これを映画館の切符売り場で提示すれば、割引入場料で入館出来ることになりました。日俳連の組合員には、言うまでもなく、全員にこのカードが配布されています。

殺陣対策委員会が発足

1989(平成元)年10月11日、日俳連内に殺陣対策委員会が発足しました。「いま結束して行動しなければ、殺陣を受け継ぐものは1人もいなくなる」――88年から89年にかけ、芸能界で立て続けに発生したいくつかの事故、それに伴って集中的に取り組まれた殺陣関係者の協議が実を結び、正式に委員会の発足となったものです。

委員会では早速にスタッフの陣容を決めました。委員長には林邦史朗氏(若駒プロ)、副委員長には菊地竜志氏(菊地剣友会)、國井正廣氏(オフィス國井と悪童児)、高瀬将嗣氏(高瀬道場)の3人。委員としては足立伶二郎氏(日本剣優会)ら殺陣師ばかり21人という顔ぶれです。

そして、NHK、日本民間放送連盟、日本映画製作者連盟、全日本テレビ番組製作社連盟、日本テレビコマーシャル制作社連盟、日本演劇興行協会に対して、次のような要旨の申し入れを行いました。

  1. 労働省労働基準局長が1988年に行った通達の内容を尊重し
    ・安全管理責任者の選任と、それを出演者、スタッフ等へ周知徹底すること
    ・殺陣師の安全確保に関する意見が適格、円滑に反映されるよう配慮すること
    ・立ち回りに関して、殺陣師の判断を尊重すること
  2. 安心して演技できるよう、労災適用に向けての条件整備。当面は製作サイドでの傷害保険等への加入。
  3. アクションの専門技能を有する俳優に対する日当制の出演料の見直し。ランク設定に向けての理解ある対応。
  4. クレジットでの芸名表示を省略する慣行の是正。