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1992年 | 日本俳優連合30年史

約7分
1992年 | 日本俳優連合30年史

-1992年- 繰り返されるアニメ決起集会

1991(平成3)年3月12日の外画動画出演条件改定のデモが成功裏に終わり、その後1年間の交渉過程を経て、俳優の出演条件は一応の目的達成を果たしましたが、それでも俳優の間には根本的解決には至っていないという不満がくすぶっていました。というのも、肝腎の製作者による製作費の拡大という基本問題が解決されず、白味線取りでの収録といった悪条件下の出演が残されたままになっていたからです。根本的な解決を図るためにはどうすべきなのか、日俳連では映演共闘、アニメ事業者協会との連絡を密に取り合って、再び1992(平成4)年3月15日、日比谷野外音楽堂に313人を集めて「3・15テレビアニメ制作条件改善を求める決起集会」を開催しました。集会にはアニメ共闘や民放労連の組合員も参加しましたから、総勢はなんと960人に膨れあがりました。

この日正午、参加者は野外音楽堂を出てデモ行進に移り、アニメ製作の現状を訴えながら、外堀通りを銀座方面に進みました。散会後は記者会見に臨む者、郵政省(現・総務省)、通産省(現・経済産業省)、国会に陳情に出掛ける者と別れ、それぞれの形で改善の必要のある実態を訴えました。その効果あってか、後日、製作費が20%アップした番組もあるとの報告も寄せられました。

関西民放テレビ5社との団体協約

1992(平成4)年4月1日、在阪の民放テレビ5社(毎日放送、朝日放送、関西テレビ、讀賣テレビ、テレビ大阪)との団体協約が締結、発効しました。1990年に締結、発効した在京民放テレビ5社との団体協約締結に遅れること2年でしたが、交渉の結果、協約の内容は東京でのものとほぼ全面的に同じものとなり、俳優たちはそれぞれの在住地域で待遇に差を付けられることのない契約体系が出来上がりました。調印式と続いて行われた記者会見には芦田伸介副理事長、二谷英明専務理事、玉川伊佐男氏、江見俊太郎氏の常務理事、関西在住の国田栄弥常務理事、西山辰夫理事、田中弘史監事が出席しました。

映画の二次利用協議会

文化庁が、1992(平成4)年5月22日、「映画の二次利用に関する調査研究協議会」を設置しました。著作権法上、二次利用に関しては俳優に一切の権利が認められていない実態を見直そうとの趣旨に基づいて設置されたものでした。協議会を構成するのは実演家の代表をはじめ、映画監督、映画製作者、テレビ映画製作者、NHK、民放連、学者、弁護士といった関係各団体の代表です。ところが、関係各方面を全て網羅し、利害の対立する者も全部を集めてしまうと、利害に関わる意見は真っ向から対立し、議論の焦点もぼけたものになってしまいます。文化庁は、二次利用の報酬を求める実演家の要望を受け入れて討議の場を設置、「2年間を目途に検討を進める」としたのは良かったのですが、関係者が多すぎたために、発足当初から焦点が定まらない前途多難な門出、そして先行きも不透明で結論が導き出せるかどうか心配な様相を呈していました。

運営に対する危惧は、まさに的中してしまいました。著作権法上に規定された内容で、一定の利益を享受できる製作者側と新たな権利を獲得するために法律の改正を求める実演家側の意見は噛み合うことなく、平行線を辿って、最後まで結論を見出すことは出来ませんでした。「2年間を目途に」の目標は大きくはずれ、約5年をかけた討議にもかかわらず、この二次利用に関する調査研究協議会は解散することになります。そしてこの協議会の趣旨は、1997(平成9)年11月に、改めて組織される「映像分野の著作権等に係る諸問題に関する懇談会」(略称・映像懇)に引き継がれるのでした。

映像懇は、二次利用に関する調査研究協議会にくらべ、目的がはっきりしていました。調査研究が目的ではなく、日本の著作権法を改正するに当たって国際情勢を反映させること、製作者と権利者(実演家、著作者)の妥協、合意点を見つけだすこと、の2点です。

映像懇に関する詳細は、1997年のところで詳しく記述します。

私的録音・録画に関する議論

市販されるCDやラジオの放送番組からの録音、テレビで放送される番組の録画は家庭内で行い、それを家族で楽しむだけなら著作権法上許されることになっています。しかし、法律上許される行為とは言っても、それを演じた実演家から見れば、実演を利用されているわけですから、何らかの報酬を得ることが出来て当然という言い分になります。

また、この録音・録画したテープなどを他人に貸したたとしたら…。それは、当然、著作権法違反となります。しかし、現実には誰が何時録画したか分からないのと同じように、個人的な貸し借りが行われても追及することは不可能と言えるでしょう。

この問題をどう解決するか? 

ドイツなどヨーロッパの国々では以前から録音・録画機器を販売する際、機器の価格に一定額を賦課(上乗せ)して、その賦課分を実演家など権利者に分配するという方式を採用していました。この方式にならって、日本でもやがて放送がデジタル方式に切り替えられることを見越し、録音・録画機器でもデジタル方式のものから賦課金を課す制度を取り入れようとの気運が高まって来ました。

折しも、1992年は朝日新聞がテレビ番組欄で「簡単録画予約システム・Gコード・ビデオプラス」を始めた年でした。朝晩好きなときにテレビ番組欄のコードを見て、録画機器にコードを打ち込んでおけば、予約録画が出来るシステムとあって、録画機器の普及が期待されるようになってきました。そこで、日俳連は郵政省(現・総務省)の「放送ソフトの充実に関する調査研究会」=91年7月設置=に対し、こうした録画予約システムが芸能活動に及ぼす影響を研究対象にするよう求めると同時に、文化庁に対しては録音・録画機器への賦課金はアナログ機器にも導入するよう要望書を提出しました。

「就業中の俳優の災害」調査

1988(昭和63)年7月の「軽井沢シンドローム」事件以来、重なる就業中の俳優の死傷事故への対処するため、芸団協、芸団協・俳優関連団体連絡会議、日俳連、日本音楽家ユニオン、現代舞踊協会、日本映像職能連合(映職連)、映画演劇関連産業労組共闘会議(映演共闘)、全日本舞台・テレビ技術関連団体連絡協議会(全技連)、の8団体(後に日本演芸家連合とマネ協が参加して10団体)は1989(平成元)年12月「芸能関連団体労災問題連絡会(略称・労災連)」を結成しました。そして、さまざまな討議の後、実施したのが1991年8月~9月の「就業中の俳優の事故」調査です。調査対象は日俳連の組合員(北日本、東日本、中部日本、西日本)1000人、東京周辺の音声出演者900人、歌舞伎、新派、現代劇、劇場映画、テレビ番組出演者から800人と合計2700人に及びましたが、回答は256人に止まりました。

ここでは調査の内容に関して細部にわたる記述はしませんが、傾向として演劇部門での演出の新機軸、舞台空間の変化、新しい機器の登場に伴う事故が増勢に向いていること、この傾向に対して安全性を保つ製作体制、安全管理が不十分なこと、が明らかにされたのでした。また、この調査を実施している最中に、東方見聞録のロケ撮影現場で鎧のまま滝壺に入って水死する事故が発生するという悲劇が生じ、安全管理と補償問題の重大性が再認識されたのでした。

日俳連初の公演製作「華と剣」

1992(平成4)年7月23日から26日まで開催された子ども舞台芸術新作フェスティバル「キッズ&アーツ・イン神戸」に日俳連製作による舞台公演「華と剣」が参加しました。林与一氏を中心に林邦史朗氏の殺陣を加えた日本舞踊と立ち回りの実演でした。林与一氏の踊りの最中の七変化や真剣を使っての竹斬りのような普段では見られない緊迫した技の披露でした。演出は日本舞台監督協会の大野晃氏、制作は日俳連の常務理事だった小笠原弘氏。また、時代劇の迫力を発揮するために照明の沢田祐二氏、音響の辻亮二氏、吉浪良一氏など東京の日生劇場のスタッフにお願いしました。
この日、現場で実演を見た芸団協の専務理事、棚野正士氏は1993(平成5)年1月28日付けの「日俳連ニュース」54号に感想を寄せ「準備期間の制約や予算等の制限(と想像する)の中で、林邦史朗による殺陣をもってきたことはまことに頭脳的な企画である。最も端的にこれがプロだという芸を見せたからである。筋一本一本の動きは美しさにあふれ、林邦史朗の指揮する殺陣集団は武と芸のぎりぎりの境目のところで観客を圧倒した。また、林与一の出演は見るものを喜ばせた。本当に出てくれたのね、と観客のご婦人がつぶやいたが、これは、観客全体の気持ちを表している。両雄の林の間で江見俊太郎が巧みに司祭役を果たし、舞台全体を大変楽しいものにした」と述べていました。