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1998年 | 日本俳優連合30年史

約 12 分
1998年 | 日本俳優連合30年史

-1998年-

この年、国民を驚かせたのはわが国を代表する証券会社、山一証券が業績不振から廃業に追い込まれ、次いで都市銀行の北海道拓殖銀行が倒産したことでした。昭和初期の金融恐慌や1960年代の不況の経験から「護送船団方式」と呼ばれた政府による保護政策で、決して潰れることはないと信じられてきた大金融機関が、もろくも、倒れるという現実を見せつけられたのでした。

前年の厚生省(現・厚生労働省)による「国民生活基礎調査」(平成9年度)によりますと、「生活が苦しい」とする世帯は、調査対象4万9552世帯の44.7%とほぼ半数に達し、「普通」と回答した世帯の49.9%と拮抗した形になっています。「生活にゆとりがある」とした世帯のわずか5.4%との格差の大きさが事態の深刻さを浮き彫りにしたのでした。

新時代に向けての定款改定

日俳連が設立されたのが1971(昭和46)年2月8日。その後、組織の前身である放芸協と合併し、新たな定款を発効させたのが1980(昭和55)年1月1日でした。その定款発効から、すでに、17年が経過し、定款の内容も組織の実態とは合わない部分が目立つようになってきました。活動の範囲が広がり、一般社会との接点も多くなって検討事項が増える一方、意志決定は臨機応変に進めなければならないという事態になってきました。ところが、執行部である理事会は構成員が多く臨機に動くには図体が重すぎるとの問題点も指摘されるようになってきました。そこで、理事会では前年(97年)10月29日、九段会館で開催された第32期通常総代会に「定款の変更」を議題として提案したのです。

改定のポイントは

  1. 理事会をスリムにするため理事の定数30人を23人に減員
  2. 役員の責務を明確化するとともに、監事の権限を強化
  3. 声の演技を主体に活躍する俳優、殺陣、アクションを主体とする俳優、方言指導を主体とする俳優など、特殊分野を受け持つ人で「部会」を構成できるよう、「部会」の位置づけを条文で明確化
  4. 金利の表示を「日歩」表示から「年率」表示に変更
  5. 事務局長の定款上の位置づけの明確化
  6. 役員、総代の選挙制度の一部変更

でした。総代会の審議は、時間を要し、通常の会期だけでは結論が出ず、後日、日俳連事務局会議室に場所を移して継続審議をするという異例の事態にもなりましたが、理事会の提案は無事承認され、定款は改定発効となったのでした。

この定款変更を受けて、この年実施された役員選挙から理事の総数は23人(旧定款では30人)となり、その中から選出される副理事長は3名(旧定款では5名)、常務理事は5名(旧定款では8名)に変更されました。日俳連も時代の流れに載って“小さな政府”、すなわち役員会のスリム化を実現したわけです。

また、1980(昭和55)年以来、18年の長きにわたって専務理事を務められた二谷英明氏に代わり、松山政路氏が専務理事に選出されました。日俳連執行部にとって世代交代を象徴する人事でした

NPO法成立

1998(平成10)年3月19日、「特定非営利活動推進法」(略称・NPO=Non Profit Organization=法)が成立しました。いったい何のための法律なのでしょうか。

公益法人には「財団法人」「社団法人」「福祉法人」などがあり、社会の公益に向けてのさまざまな活動が展開されています。しかし、これらの法人を組織し、実際に活動を展開するためには莫大な資金が必要となります。一般にボランティア活動をするグループの場合は、小規模のものが多く、もともと資金力が乏しくて財団や社団の形式を整えることが不可能です。ところが、ボランティアの力は決して馬鹿にしてはいけません。阪神大震災の復興の際に発揮されたように、行政の力で処理できない問題がボランティアの働きで次々と解決されたことは、どなたの記憶にも新しいところでしょう。それに震災復興に向けては民間から総計1787億円もの義捐金が集まったのでした。しかし、寄付をしたとしても、それまでの法体系では、税制上の優遇措置もないという問題がありました。

NPO法は、こうした問題に対処する目的で制定された法律です。

ボランティア団体に法人格を与えれば、行政側だけでは手の届かない活動を市民に委ねることが出来ます。また、創造的な芸術活動や芸能活動をしている団体に法人格が与えられれば、税金対策などに余計な神経を使わずに活動を強化することも可能です。現に、アメリカでは100万もの団体にNPOの法人格が与えられているという実績が報告されていました。

日俳連もまさに非営利団体です。しかし、事業協同組合として活動している関係で、税法上の優遇措置はありませんし、組合員が賦課金を滞納しても組合員として登録されていれば、税務処理上は、納入されたことになり、賦課金に税金が掛けられてしまうのです。日俳連の場合は、事業協同組合として

  1. 団体交渉権を持っている
  2. 展覧会や演劇などの事業を主催することが出来る

など、税金の問題とは別に事業協同組合であることにメリットがあります。しかし、純粋に福祉を目的としてボランティア活動の団体を作ろうとしている人々には、上記のような税金のしわ寄せで活動意欲がそがれてしまうということになりかねません。

というわけで、NPO法案に対する期待は高まり、芸能界では芸術文化振興連絡会議(略称・PAN=Performing Arts Network)が中心となって、国会に働きかけ、他団体との協力関係も結んでNPO法の成立に漕ぎ着けたのでした。

この新法の成立、施行に伴って、芸能界で初めて設立されたのが「特定非営利活動法人・東京芸能人フリー会」です。この会は、かつて日本の映画会社が隆盛を極め、映画俳優の多くが各映画会社と専属契約を結んでいた頃、映画会社には所属しないで「フリー」の立場をとっていた人たちの任意団体でした。それがNPO法の施行に伴い芸能人の立場で社会貢献活動を展開しようと、新法を根拠にした法人格を取得したものです。健康保険にかかわる業務は、これまで通り、継続、発展を期しながら、新たな事業展開を計画するところに特徴があります。

新たな事業は、既存の福祉関係団体や市民団体とのネットワークで充実させ、芸能人が積極的に市民の輪の中に溶け込んで行こうとの狙いで企画されるのです。発会は翌1999(平成11)年9月1日。初代の理事長には淡島千景氏を選出しました。

活発になった事業展開

98年の日俳連の活動の中で特筆すべきことは、従来から企画してきた事業が一気に展開されたことです。前年(1997年)の項でも触れた能・狂言の稽古をはじめ、乗馬、アクションのレッスンもスタートしました。

能・狂言の稽古は98年5月7日。当時、東京・港区芝大門の商店街のはずれ、ワタベカメラ店のビル4階にあった日俳連の事務局会議室からは朗々とした謡の声が聞こえてくるようになりました。正座をし、十分に腹に力を込め、ゆっくりとした響きの声が遠くに送られるような独特の発声方法です。午後のひととき、都会の喧噪とはひと味違った音声の流れは、ビルと商店に囲まれた地域に一種の味わいを醸し出すのでした。

乗馬の訓練は98年10月6日、7日の両日、山梨県小淵沢市にあるラングラーランチで行われました。世話役の高橋成悟氏の骨折りで初心者に適した環境と施設が用意されたのでした。初日、牧場に着いたばかりの段階では、馬に近づくのさえおっかなびっくりというのが、その日の夕暮れには自分の意思で馬を歩かせるほどにまで上達できるのですから、俳優にとっては大収穫です。

殺陣とアクションでは林邦史朗氏の主宰する若駒で殺陣の立ち回りを中心とした演技指導を、また高瀬将嗣氏の主宰する高瀬道場では技闘、ダンスの演技に磨きを掛ける練習が展開されました。立ち回りやアクションでは、如何にも本当らしく演技を見せながら、絶対に事故にならないよう気を付けなければなりません。「安全を第一に考えて、そのうえで演技を指導できる技術は簡単に修得出来るものではない。だから、しっかり訓練をして正しい技術を伝授できる人材を作れるように最大の努力をし、出来ることなら免許を出せるほどにしたいのだが…」、林、高瀬両氏の理想は、日俳連の中に殺陣、アクションの資格審査所を設置したいというところにあるのでした。

ビデオ映画の著作権、日俳連に帰属

未払い出演料対策会議が発足したのは1993(平成5)年11月1日でしたが、それ以来重ねられてきたいくつかの対策の中でも画期的といえる出来事が生じました。未払い出演料に関わる支払い請求訴訟で、和解が成立し、ビデオ映画作品の著作権が日俳連に帰属するという事態が生じたのです。事の顛末は次のようになります。

1996(平成8)年10月、日本テレビ日曜スペシャル「野望の群れ」と題するビデオ映画(俗に言うVシネ)に出演した俳優に1銭の出演料も支払われていない、しかもその総額は1300万円余にのぼる、との情報がマネージャーの一部から伝えられ、重大事件として取り上げられることになりました。

製作に至る事情は複雑でした。企画はユニタリー企画という広告の企画、製作やテレビ番組の企画、書籍の編集を手掛ける会社。このユニタリー企画がテレビ番組の製作やVシネの販売などを行う富士エンタープライズと組んで資金を調達し、TMCエンターテインメントとニューテレスという会社が製作プロデュースを担当して作品を作ったのでした。

俳優の出演契約はTMCエンターテインメントとの間で結ばれた形になっていましたが、実際には、ニューテレスが「日本テレビで放送される」とか、「ビデオで販売する」などと説明して、俳優の所属する事務所に出演を依頼していました。しかし、TMCには作品を製作する能力はなく、事務所は閉鎖され、代表取締役が行方不明になるような実態がありました。

それでも作品は1995(平成7)年中に呼び集められたスタッフと俳優によって完成し、著作権はTMCが持ち、作品の販売はバップという会社が受け持つことになって、実際に、1800本が販売されたのでした。ただ、ゴタゴタは続き、著作権は富士エンタープライズに委譲され、改めて富士とバップの間で販売委託契約が締結されたりしました。

出演した俳優は28人にのぼり、他に76人のエキストラが出演しています。問題は東京地裁に持ち込まれ、判決で出演料の全額支払い命令を勝ち取るための訴訟が提起されました。ところが、製作を担当した被告側は倒産したり、経営者が行方不明だったりで、裁判もはかどらず、結局、和解によって決着をはかることになったのです。

和解の内容は満足できるものではありませんでした。出演料については債権の16.61%に相当する202万円を支払わせるに止まりました。しかし、作品のマスターテープの所有権、著作権を日俳連に帰属させ、今後の使用に関わる権利処理も日俳連が行うとの和解条項がついたのです。この作品が販売して多大の利益をあげるかどうかは未知数でしたが、製作者側から著作権を委譲されたというのは日俳連にとって初の経験であり、画期的な出来事でありました。

労災保険の適用で俳優に朗報

98年4月1日、かつてオペレッタ劇団「ともしび」で女優として活躍していた山崎悦子さんに労災補償保険が適用されるという決定が、東京の新宿労働基準監督署で、下されました。山崎さんは劇団の地方公演で、早朝のトラックへの荷積み作業から舞台装置の組み立て、深夜の帰宅、舞台上での長時間わたる無理な姿勢の継続によって頸肩腕症候群、背腰痛症を発症し、休職、退職を余儀なくされていたのです。体調の不良はいくつかの病院を訪ねても決め手になる治療法は見つからず、医師の中には「無理をした自業自得」と言い出す者もあったと、山崎さんは言います。

しかし、藁をも掴む思いで最後に訪れた東京・新橋の芝病院で「労災職業病による患者の会」に参加し、その会のアドバイスによって、94年12月に、児童演劇の現場の実情をビデオに収録して労基署に提出したところ、労災の認定が下りたのでした。俳優が病気を理由に転職した後、過去に遡って労災が認定されたのは、この山崎さんが初の例だと言われています。劇団と山崎さんの関係が明確に「雇用関係」だったことが労災適用の決定的な理由だったとされていますが、粘り強く闘おうとしてコツコツとデータの収集、発表を繰り返したことが適用に結びついたのだと、闘いの尊さに注目している人もいます。

それにしても、俳優が労災保険の適用を受けるためにここまでやらねばならない現実は一刻も早く是正しなければならないでしょう。

声優のための国際会議

1998(平成10)年9月5日、イタリア中央部の小都市、アレッツォでFIA(国際俳優連盟)の拡大理事会が開催され、声の実演(Dubbing Performance)に関する権利問題が主テーマとして取り上げられました。折しも、WIPO(世界知的所有権機関)では視聴覚実演の権利問題を討議する専門家会議の中で、アメリカからは「実演家の定義をする際、エキストラとバックグラウンド・パフォーマーは定義の中からはずすべきだ」との意見が出され、さらに「バックグラウンド・パフォーマー」の意味付けを巡って「いわゆる端役だ」とする意見や「声だけの出演も含めるべきだ」との意見が錯綜したため、FIAでは「きちんと意見を統一しよう」と拡大理事会の開催となったのでした。

「声優」という仕事が職業として確立しているかいないか、は国によって違いがあります。アメリカの場合は、声優は職業として確立してなく、劇場用映画としてアニメーションを製作する場合には著名な映像関係の俳優がアテレコを務めます。だから、会議に出席したアメリカ代表によると「ディズニーのアニメなどに声をを入れるのは俳優の仕事であり、俳優の統一労働組合であるSAG(スクリーン・アクターズ・ギルド)が出演条件をちゃんと決めている。アメリカでは外国向けの吹き替えとしてメキシコ向けのスペイン語版が作られる場合もあるが、できばえは劣悪である」などという意見になってしまうのです。他国とはっきり事情が違っているのに、自国の実態だけを披露して世界全体を律してしまおうとするアメリカの態度にはイタリア、フランス、韓国のように声優が立派に独立した職業になっているところは激しく反発します。とくに、イタリア、フランス、スペインなどでは外国映画を、劇場でもテレビでも、放映する場合自国語の吹き替えを原則とし、字幕は滅多に使わないというところもあるのです。

こうした中で開催された拡大理事会でしたから、ヨーロッパ各国からのアメリカに対する風当たりは非常に激しいものになりました。会議中の公式発言ではさすがに控えられましたが、フランスから参加した声優の代表は食事時間中に「この問題の討議ではアメリカをボイコットする決議を採択しようじゃないか」とか、「アメリカのプロデューサーを困らすために世界規模のストライキを実現しよう」と話しかけてくるほどでした。

この拡大理事会では、取り立てて「声優の権利」や「声優の吹き替えを実演と認める」などの決議は取りませんでしたが、参加者の多数の合意は出来たことがはっきりしました。アメリカからの参加者は意気消沈し、逆にヨーロッパ、日本は意気揚々となった会議でした。日俳連からは理事の池水通洋氏と古川和事務局長が参加し、日本における声優の実情、日俳連への結集状況などをつぶさに報告しました。

十嶋赫子事務局員の退職

この年の11月末、会計主任を務めていた十嶋赫子氏が退職しました。十嶋氏は1970年代の後半、まだ事務所が東京・銀座の電通内にあった頃、経理処理のエキスパートとして事務局入りした人でした。また、ご主人が前進座所属の演出家で演劇の世界に明るいことも事務局入りの大きな要素となりました。長らく事務局長を務めた村瀬正彦氏は「十嶋さんに来ていただいて、それまで大福帳的だった経理処理が本当の簿記処理になった」と述懐しています。十嶋氏の退職は、日俳連の就業規則では初の定年退職となりました。