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2001年 | 日本俳優連合30年史

約9分
2001年 | 日本俳優連合30年史

-2001年- 文化芸術振興基本法が施行

2001(平成13)年11月30日、議案が国会に上程されてからわずか2週間、実質審議は衆議院、参議院各1日ずつという猛スピードで「文化芸術振興基本法」が成立。7日後の12月7日には施行されるという驚くべき事態が生じました。

わが国には、太平洋戦争終戦以降、文化財を保護するための法律、著作権を守るための法律のように個別の問題に関わる法律は制定されてきましたが、文化、芸術全般の振興を意図した基本法はありませんでした。ヨーロッパ先進国に比べ、国の文化政策が遅れていると批判される原因でした。教育基本法があり、原子力基本法があり、中小企業基本法がありながら文化・芸術が後回しにされてきたところに経済最優先という日本国の志向が現れていたとも言えるでしょう。

従って、今回、文化・芸術の振興基本法が制定、施行されたことは関係者にとって喜ぶべきことでした。とりわけ芸団協は、1984(昭和59)年に、ユネスコの「芸術家の地位に関する勧告」を日本で実のあるものにする施策として「芸術文化基本法」の施行を提言しています。そして、それからというもの、1990(平成2)年には本格的に法体系のあり方についての研究に入ります。折しも、音楽議員連盟でも「芸術文化振興に関する基本的な立場の検討の課題」を研究課題に掲げ、タイアップする形にもなるのでした。1998(平成10)年には、芸団協の事務局が「芸能文化基本法(仮称)」の研究に取りかかり、翌99年には芸団協内に「芸能基本法委員会」が設置され、野村萬芸団協会長を座長とした委員会には大林丈史氏、浜田晃氏の両芸団協常任理事(日俳連常務理事)が参画することになります。

こうしてみると、実演家団体の総本山、芸団協は他に先駆けて文化・芸術振興のための法制定には力を注いでいたわけで、ことの起こりから数えれば実に17年の歳月を経て、提言が実を結んだのでした。

この新しい基本法の中で最も注目すべきは第2条「基本理念」の中の第3項の文言です。そこには「文化芸術の振興に当たっては、文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又これを創造することができるような環境の整備が図られねばならない」と書かれ、国民の権利としての「文化権」の確立が謳われたのでした。このことは文字通り画期的な出来事といって過言ではないでしょう。

また、俳優にとっては、第2条2項にある「文化芸術活動を行う者の創造性が十分に尊重されるとともに、その地位の向上が図られ、その能力が十分に発揮されるよう考慮されなければならない」で、「地位の向上」という文言が書き入れられたこと、さらに第20条の「国は、文化芸術の振興の基礎をなす著作者の権利及びこれに隣接する権利について、これらに関する国際的動向を踏まえつつ(中略)必要な施策を講ずるものとする」とあることが最大の収穫となりました。

ただ、基本法はできてもこれをどう活かし、文化、芸術、芸能に携わる者のメリットとして引き出すかはこれからの問題です。中でも芸能にかかわる者の生活の安定、職場での安全の確保、万一の場合の補償などの課題は、この基本法を基にして個別の法律の策定が必要になります。

さらに、国や地方自治体からの助成の獲得にしても、芸術や芸能の諸活動に携わる者の強い信念が問われることになるでしょう。その意味では、新法の施行によって、芸能人にはまた新たな課題が与えられたことになります。

PREの発足

PREとはPerformers Rights Entrusutmentの省略で、日本語では「映像実演権利者合同機構」と言います。放送番組の再放送、ビデオ転用による目的外使用など芸能実演家の権利に基づく分配金の処理業務を、実演家からの委任に基づいて、引き受けようという新たな組織です。常務理事の池水通洋氏が中心となって2001(平成13)年4月6日に設立、顧問の高城淳一氏の努力もあってCPRA(芸団協・著作隣接権センター)からの資金提供を受けました。事務局は日俳連と同じ事務所内に設置しました。

では、こんな組織が何故必要だったのでしょうか。

著作権管理事業法の施行

著作物の権利の管理については、1939(昭和14)年以来、約60年にわたって「仲介業務法」という法律が適用されてきました。この仲介業務法の特徴は、管理団体や対象事業については許可制を、使用料規定については認可制を採用してきたことです。例えば、小説であれば(社)日本文芸著作権保護同盟が、脚本については(協)日本脚本家連盟と(協)日本シナリオ作家協会が、音楽については(社)日本音楽著作権協会が業務許可を得、認可された料率で権利処理を行っていました。これらはすべて著作物についての処理でした。そして著作隣接権の対象である実演、レコード、放送物に関しては何の規定もなかったのです。

ところが、時代が変わり、世の中全般に規制緩和が叫ばれるようになってくると、特定の団体だけが許可や認可を得て独占的に業務を続ける制度は廃止しなければならなくなってきました。誰でもが自由競争の中で自由に使用料を定め、力量に応じたサービスを提供して業務ができるようにするのが近代的は姿だというわけです。

そこで、60年ぶりの法律全面改正が行われ、「著作権等管理事業法」が2000(平成12)年11月21日に成立(2001年10月1日施行)したのでした。この新しい法律では許可制、認可制は廃止され、管理団体の設立は「登録制」に、使用料規定は「届出制」に変更されることになりました。そしてこれまでは法律の対象にはなっていなかった実演の権利処理も事業の対象とされたのです。何よりも、基本的には自由に事業できるというところが大きな特徴でした。

これまでは、NHKのドラマがビデオ化され、その目的外使用料がCPRAに払い込まれますと、CPRAの委託を受けた日俳連が個人個人への分配処理をし、お金を指定の金融機関講座に振り込んできました。権利者が日俳連の組合員であるかないかにかかわらず、振込先を丁寧に調べて送金してきたのです。

しかし、著作権管理事業法ができてからは権利処理をきちんと委任した者に対してしか処理をするわけにはいきません。その仕事は質的にも量的にも、専門性が必要になってきました。そこで、映像に固定された実演に関してはその権利処理を専門に行う団体が必要という考えから、映像実演に関連する団体の日俳連、芸俳連、マネ協、劇団協などの賛同を得、PREが設立されたのでした。

PREでは権利委任者から一定の手数料を受け取って運営していく関係上、当初の委任者1万人を確保したいとしてスタートしましたが、この目標はほぼ半年で達成に成功しました。

日俳連の活動条件向上を目指して

俳優の権利拡大を目指すためには日俳連として数々の活動が伴わなくてはなりません。とくに、ITの急速な発達によって俳優を取り巻く環境が大きく変化していく中にあっては、どの時点で、どこへ向けて、何をなすかを素早く判断し、行動に移す機動性が求められることになります。

変化する状況を的確に判断し、時宜に応じた対応策を考えるために、第35期(2000年9月1日~2001年8月31日)の新しい方針として「活動条件向上委員会」(担当常務理事・大林丈史氏)が設置されました。その具体的な行動の一つとして同委員会内に置かれたのが「あけぼの」です。

「あけぼの」の設置

名称が「あけぼの」とは、いささか、突飛な感じを受けますが、これはキャスティングやギャラの交渉に当たってくれるマネージメント事務所に所属していない全くフリーの日俳連組合員のうち、是非マネージメント事務所に所属したいと希望している者の手助けをして差し上げようという組織です。責任幹事は東日本選出の総代で、理事の経験もある須永慶氏。たまたま、組織を立ち上げようと準備を進めていた2001(平成13)年4月から5月にかけて、日俳連の事務局が手狭になった芝大門から新宿区住吉町に移転、最寄りの駅が都営地下鉄新宿線の「曙橋駅」だったところから、これにあやかったのでした。「あけぼの」の仕事は、当面、事務所所属を希望しながらうまくいかない組合員とマネージメント事務所との間を取り持つことです。2001年8月現在で調査したところ、事務所への所属希望者は約40人。「あけぼの」ではこの方々一人一人の詳細な経歴書を作成し、定型ファイルにしたうえ、マネ協理事会の了承を得てマネ協事務所にて閲覧できるようにしました。

「俳優の未来を考える会」の再構築

大企業の雇用労働者に比べて不安定な立場に置かれている俳優が安心して働ける条件を確保するにはどうしたらいいのか。とかく世間からの理解を得にくい俳優の立場をアピールし、行動を起こすには…。

日俳連の「俳優の未来を考える会」は、かつて1993(平成5)年にスタートし、テレビドラマの再放送の実態調査などで成果をあげましたが、その後中心メンバーが大挙して理事に当選したこともあり、活動が休止していました。

「これではいけない」と一世代若返った組合員が、改めて、会の再興をめざして動き出したのです。会の代表には清郷流号氏、副代表には丸山秀美氏を選出し、約20人の若手組合員がほぼ年4回集まって勉強を始めました。最初の勉強のテーマは、日俳連とは何かを知ること。そして、活動が次世代に引き継がれるよう若手活動家を育成すること。これこそ俳優が団結して働く環境の改善、整備に向かうための布石です。俳優を巡る環境にはどんな制約があるのか、法律はどうなっているのか、国際条約は?

勉強の成果は、いずれ、行動の具体的計画として結ぶことになるでしょう。

実現を見た地方での活動 関西地区では…

「日俳連の活動は東京周辺に偏りすぎてはいないか」との批判は長い間続けられ、これを打開するためには何から始めたらいいのか、の模索は日俳連の執行部である理事会のジレンマでもありました。そんな悩みを振り払う試みが関西地域でも、東海地域でも行われる時が、やっと、やってきました。

2000(平成12)年7月1日に羽曳野市のクレイン大阪で「初心者乗馬体験」が、同年8月15日、12月2日には若手俳優向けの「着物の着付け講習会」が開催され他の続き、2001(平成13)年1月26日には関西俳優協議会(関俳協)の役員が書き下ろした脚本を利用したお芝居の稽古、2月18日には時代劇のメイキャップに関する講習会、3月27日には、この二つの講習会を活かして「お竜捕りもの帖」をおさらい形式で発表する機会を作ったのです。

生みの苦しみが過ぎると、次の計画が生まれてきます。日俳連と関西俳優協議会の協力関係は一層強まり、俳優にとって最も大切な「科白(せりふ)・その科(しぐさ)と白(ことば)」をタイトルとしたセミナー・シリーズが始まりました。第1回は7月14日に関西落語会の大御所、露の五郎師匠をお招きして「五郎師匠に聞こう落語の裏技」の講義を聞く会を、8月25日には国立文楽劇場青年歌舞伎公演の「菅原伝授手習鑑」の鑑賞を、そして11月17日には、演出家、津上忠氏を招いて「時代劇のことば」の講演会を催しました。

東海地区では…

21世紀の幕開けとともに、名古屋でも「狂言の入門講座」が開始されました。講師は和泉流狂言師の佐藤友彦氏で、足の運びの基本から始まる6回の講習会。

そして、2001年1月15日には名古屋市の平安閣で、名古屋放送芸能家協議会(名放芸協)との共催による方言シンポジウム「民話を通じての言葉の研修会」が開催されました。民話作家の松谷みよ子氏を招いての講演とシンポジウムには一般の関心も高まり、東京の動員数を上回る約300人が集まる盛況となりました。

日俳連の活動は遅々としながらも、確実に、年齢層、地域での広がりを見せています。この広がりが、さらに一層大きく、成果のあるものになるよう多くの方々のご指導、ご鞭撻をお願いし、筆を置きます。