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1963年~1965年 その1 | 日本俳優連合30年史

約18分
1963年~1965年 その1 | 日本俳優連合30年史

いよいよ本格稼働へ

「日本の空に、はじめて、ラジオの電波が流れたのは大正14年(1925年)3月22日のことでした。それから40年、今、電波文化の時代がきています。国民生活に極めて大きな影響を持つ放送文化の仕事に携わる私たち出演者も、社会的任務の重さを痛感し、受け身の姿勢を捨てて積極的に発言し、責任ある行動をとらなければという自覚の声が起こってきたのは、すでに数年前のことでした。そのためか幾度かタレントグループの連絡協議機関のようなものが計画され、生まれたこともありましたが、いずれも規模が小さく健やかに成長するには至りませんでした。

それが昭和37年あたりから、放送会社の番組制作面の合理化が進むにつれ、国産TV映画の制作が活発になったり、或は劇場映画のTVへの放出、外国TV映画の再放送などが激増したりして、出演者の身辺にも急速に問題が多くなって参りました。更に、テレビフィルムの完全自由貿易を目前に控え、今後ますます考えねばならぬことは増える一方という情勢を迎えています。

そのため、ようやく放送界全般の出演者の間に、”自分たちの自分たちによる自分たちのための組織を作ろう”という気運が盛り上がると同時に、周辺からも昨今はいろいろな動きが見られるようになりました」

これは、放芸協設立に当たって、その準備に邁進した久松保夫氏が書き記した文章です。まさに、せっぱ詰まった俳優たちの心情を正直に記した貴重な文章と言えるでしょう。

そして、準備が整った段階では、理事長就任がすでに決まっていた徳川夢声氏が、次のような一文を新聞、雑誌等マスコミ各社に郵送しました。「いよいよスタート」の意気込みが伝わってきます。

お願い
私ども、このたび、別紙発起人をもちまして「日本放送芸能家協会」(仮称)を設立することになりました。協会の目的・事業等は規約(案)に示すとおりのものでございます。つきましては、左記により設立総会を開きますので、御取材下さり、御報道賜りますれば光栄これに過ぐるものはございません。ご多用中まことに恐縮ながら、よろしくお取りはからいくださいますようお願い申し上げます。
とき 9月22日(日)午後3時
ところ 平河町・都市センター・大会議室
昭和38年9月16日
日本放送芸能家協会(仮称)
設立準備会・代表 徳川夢声

1963(昭和38)年9月22日に設立の産声をあげた日本放送芸能家協会(放芸協)は、早速、活発な活動を開始しました。議事録(布施事務局長のメモ)によりますと、翌64年5月2日までの間に、計8回の理事会を開催しています。

第1回理事会(63年9月22日=設立総会当日)

第2回理事会(63年9月28日)

  • 常務理事を5名以上10名以内と決定。
  • 協会活動資金として発起人(197名)から5000円の融資を受けることになった。(注1)
  • 「人権を守る会」への当協会代表として佐々木孝丸、久松保夫の2氏を選任。
  • 著作者団体協議会に正式加盟を決議。当会の代表として佐々木孝丸、久松保夫の両氏をおくることになった。

第3回理事会(63年10月24日)

  • 機関誌創刊号の内容検討。その結果、協会の目的PRを主とし、関連記事はそれに準じて載せることになった。
  • 常務理事の人員を10名と決定。人選方法は往復はがきに理事53名の名前を記載し、各理事がその中から5名を連記し、得票順に選任する。

第4回理事会(63年11月7日)

  • 映画5社の旧作品テレビ放出に関して、映俳協が日本映画製作者連盟(映連)に対して著作権の主張を主にした要望書を提出することになった。当協会はこの問題を検討し、映俳協の態度を全面的に支持することを決議した。同時に当協会として、劇場用映画テレビ放映によって時間的制約を受けること必定の放送人の立場を打開するため、独自の態度で放送局側と番組編成などについて打診することになった。
  • 文部省の著作権制度審議会に俳団連から参考人を出すことになった。その候補者として、当協会から佐々木孝丸、久松保夫、池部良、江見俊太郎、伊藤雄之助、坂東三津五郎、望月優子、東山千栄子、笠置シズ子、香川京子、長門裕之、進藤英太郎、片谷大陸、船越英二、小泉博、二谷英明の16氏を選出した。
  • 機関誌名を「放送人」と決定。

第5回理事会(63年12月12日)

  • 常務理事10名の選任を行った結果、江見俊太郎、大平透、寄山弘、コロンビア・トップ、清水元、高橋圭三、多々良純、東野英治郎、久松保夫、望月優子の10名を選出した。
  • 賛助会員の会費は、月額1口1万円以上と決定。
  • 顧問弁護士、橋元四郎平氏へ顧問料を含め、お歳暮として1万円と贈り物をすることになった。

第6回理事会(64年1月9日)

  • マイクロウェーブによるNHK番組の沖縄再放送に関して、NHK著作権課と俳団連、その他諸団体との間で行われた話し合いについての報告をした。
  • 著作権法改正に伴い、演技に著作権を認め、法的保護の確立を求める答申書を文部省著作権制度審議会に俳団連から提出することになった。そして答申書の内容について報告がなされた。
  • 当協会の目的のPR、会員獲得のための拡大広報委員会開催を決議。

第7回理事会(64年3月7日)

  • NHK番組沖縄再放送の再放送料は、一括して著作者団体協議会理事長、石川達三氏名義で預金することになった――預金する場合、改めて名称を作る――旨の報告が行われた。
  • 外国映画日本語版(アテレコ)分科会作成の製作会社、およびスタジオへの要望書に理事長が署名し、友誼5団体からの支持声明書を添え、関係27社に提出することになった。なお、同文書を新聞社(13社)にもPRの意味で送付することになった。
  • 著作権問題に関して俳団連が独自の立場からだけでなく、他の映画監督協会、シナリオ作家協会等に協力を促し、足並みの調整に努めるべきではないか、との話し合いが行われた。当協会は、とくに、放送作家協会に働きかけることになった。これには久松理事が、放送作家協会理事長、大林清氏に個人的に会って下話をしておき、緊急に合同の会合をもち、著作権問題について意見を交換し、団結してこれに当たることになった。

第8回理事会(64年5月2日)

  • 第1回定時総会を64年5月31日(日)に開催と決定。
  • 総会準備小委員会を設置。

(注1) 実際に融資に応じてくださった発起人は83名でした。しかし、協会発足の難しい時期だけに、この応募は貴重な浄財でした。順不同になりますが、名前を記しておくことにします。

赤木欄子、芥川隆行、浅野進治郎、有島一郎、淡島千景、飯田蝶子、池内淳子、池田忠夫、池田よしゑ、池部良、伊志井寛、石浜朗、泉大助、市村俊幸、一龍齋貞丈、一龍齋貞鳳、臼井正明、薄田研二、江川宇礼雄、大木民夫、大平透、奥野信太郎、尾上松緑、香川京子、笠置シズ子、梶哲也、桂小金治、加藤道子、加藤嘉、北沢彪、楠トシエ、久里千春、桑山正一、小泉博、河野秋武、小島正雄、小山源喜、桜むつ子、佐々木孝丸、佐野周二、沢村貞子、汐見洋、清水元、菅原通済、鈴木光枝、関光夫、園井啓介、高橋和枝、高松英郎、滝沢修、多々良純、玉川伊佐男、戸浦六宏、富田仲次郎、中村竹弥、中村メイ子、夏川静江、七尾伶子、二本柳寛、花柳喜章、原 泉、坂東三津五郎、久松保夫、藤間紫、藤原釜足、フランキー堺、ペギー葉山、牧野周一、松村達雄、三木のり平、三津田健、水の江滝子、森光子、森繁久彌、安井昌二、柳永二郎、柳沢真一、山田巳之助、寄山弘、由利徹、若山弦蔵、劇団新劇場、土の会

外国TV映画放送の杜撰な契約実態

さて、ここで重視すべきは第7回理事会で討議された「外国映画日本語版に関わる要望書」です。外国映画が盛んに輸入されるようになり、日本語版吹き替えによって、放送の人気が高まったのはよいことでした。しかし、その一方で、吹き替えに当たる俳優の待遇はよくなるどころか悪化する傾向さえ示していました。そこで、放送事業各社に対して、真摯な対応を求めようとしたのが要望書です。その内容は、次のようなものになりました。

要望

放送事業発展に伴い、各放送会社は外国映画日本語版の、実際の制作を他の業者に請け負わせ、あるいはその製品を買い付け、または巷間のスタジオを使用して制作する等のことが既に行われ、今後ますます増加の趨勢にありますことは、私どももこれを純経営上の問題として理解し、了承しているところであります。

ただし、そのことのために放送会社の社会的責任はいささかも軽減されるべき性質のものではなく、また、代行業者の芸術的、経済的責任も等しく重且つ大と申さねばなりません。このことは私ども出演者にとっても全く同様であります。私どもは、両者が有機的連携を保ちつつ、より優れた作品を世に送るべく努力しておられ ることを信じ、私どもも又、常に、与えられた職責を全うすべく変わらぬ努力を致しておるつもりであります。しかるに、今日実際には、放送会社直接制作の場合に比し、これらの場合、出演者に著しい不利益がもたらされる事例の余りに多いことは、洵に遺憾の極みであります。よって、次の諸事項につき、放送会社ならびに制作会社の両者間において、早急の話し合いがなされ、明朗且つ効率的な職場にご改善くださいますよう、善処方を要望致す次第であります。

  1. 出演料は、オンエア・キー局のランクを下回らないようにして欲しい。(下請けだからと言って値切ってよいという理由は成立しない。放送局ランクが無視され、安い出演料が支払われている事例が余りにも多い)
  2. 出演料の支払いは原則として録音当日とされたい。万一遅延する場合は、遅くとも録音日から2週間以内であること。(最近、出演料の支払いの遅れる会社が目立って多くなり、為に出演者の経済生活が日に日に窮地に追い込まれてきている)
  3. スタジオの構造、設備およびその管理保全は、防災上、保健衛生上、芸術創造上完備されたものであること。(巷間、一部スタジオには前述の点につき、余りにも無関心なものが散見されますので、これらのスタジオ使用に当たっては、厳重改善方を指導されたい)

この要望書には一つの追加条項がついていました。それは、とくに明瞭な改善を求められねばならないある一社への強い要求だったのです。「アテレコは八掛け」。この理不尽で、人権を無視したギャラへの抗議でもありました。

NET(現テレビ朝日)に対する追加条項
なお、とくに貴社に対しましては、まず「アテレコはナマの八掛け」という一方的見解による内規を撤廃し、他の放送会社同様、外国映画日本語版出演料ランクを制定されますよう、要望致します。万一、今後NETでは制作はしないから等の理由で新ランクを制定の意志なき場合は、従来の八掛けランクを撤廃する旨の声明を関係各下請け会社に発表されますよう要望致します。

そして、放芸協の出したこのような要望書に対して、俳団連はこれを追認する声明書を発表しました。すなわち、

声明書
今般、貴社に対し、日本放送芸能家協会が外国テレビ映画日本版の制作に関する要望書を提出致しましたが、これは単に日本放送芸能家協会だけの問題ではなく、私共も俳優の立場から重大な関心を持つことを表明致します。
俳優団体連絡会日本映画俳優協会・代表理事 池部 良
日本喜劇人協会・会長 榎本健一
日本新劇俳優協会・会長 東山千栄子
日本俳優協会・会長 市川左団次
新劇団協議会・議長 倉林誠一郎

というわけです。まさに生活の基盤を脅かされんとする状況下で、俳優が団結して立ち上がった最初の行動でもあったのでした。

しかし、このような活発な行動を起こしても、外国テレビ映画日本語版をめぐる問題は続きました。その一つに「サーフサイド6」の例があげられます。「サーフサイド6」はアメリカの大手映画会社、ワーナーブラザースによって制作され、当初、TBSから放送された外国テレビ映画でした。ところが、この番組がいつの間にかフジテレビによって無断再放送されていたのです。声の出演で主役を担当していた石浜朗氏の「あまりにも酷いではないか」との訴えから、調査してみますと、日本語版の翻訳に関しても日本放送作家協会との間でトラブルを起こしていることが分かりました。それにもう一つ、TBSとフジテレビで放送されたフィルムが制作会社であるワーナーブラザースに返還されるときには、日本語版が付いたまま返されていたというのです。

なんとまァ杜撰な! と驚くばかりです。文字通りの全権譲渡契約、日本側は、放送局も含めて、何の権利も享有しない開けっ広げ契約を結んでいたのでした。

放芸協は1964年8月31日付けの文書で、フジテレビならびにワーナーブラザースに抗議の文書を送り、同年9月16日付けで、フジテレビから「以後改善する」旨の回答を受け取って、一応、問題は解決しました。

無視されていた芸能人の人権

ところで、放芸協発足第1年目の理事会で検討された項目の中で注目すべきものを紹介しておきましょう。

まず一つは「人権を守る会」です。実は、1963年夏、週刊誌「女性自身」は2回にわたって森繁久彌氏(現日俳連理事長)の名誉を著しく傷つける記事を掲載しました。名誉・声望を傷つけられるということは、イメージがその生命をも左右するといえる俳優にとって重大問題です。映俳協をはじめ俳優の団体はこぞって、マスコミによる人権侵害を未然に防ぐための合同対策会議を行うことにしました。そして、この年9月16日、放芸協の発足に先立つ6日前に、東京・大手町の産経会館にある文芸家協会会議室で「人権を守る会」の発会式ならびに第1回連絡会を開催したのでした。集まった顔触れは池部良、江見俊太郎、小泉博、小笠原弘、淡島千景、小山明子、千葉徹也、森繁久彌、森塚敏、松村達雄、勝田久らの方々でした。

会の目的は会則第3条に明記したように、「人権または名誉を著しく侵害したり、個人のプライバシーを無視することによって社会的に悪影響を及ぼすような不公正、且つ悪意のある歪曲、ねつ造記事または報道を未然に防止するとともに、そのような事実を認めた場合は当事者の人格、名誉等を守るための諸活動を行い、正しいマスコミとの協調をはかること」です。加盟団体は監督新人協会、日本映画監督協会、日本映画俳優協会、日本音楽家連合会、日本歌手協会、日本喜劇人協会、日本作曲家協会、日本新劇俳優協会、日本俳優協会、日本放送作家協会、シナリオ作家協会、新劇団協議会、漫画集団。そして6日後に発足する放芸協もすぐに加わりました。

当時の週刊誌ジャーナリズムは、芸能人のプライバシーや名誉、声望に対しては、甚だ無神経だったようです。

例えば、当時、劇団三十人会の運営委員をしておられた伊藤牧子氏は、講談社発行の「ヤングレディ」に俳優座の加藤剛氏との「美しい愛の交流」を掲載されて大変な迷惑を受けたとして、放芸協に次のような要望書を寄せています。

去る10月2日に発売された「ヤングレディ」10月12日号に、「美しい愛の交流」が掲載されました。

今回の「愛をめぐる」記事掲載について、私並びに加藤剛氏は真っ向から取材拒否の基本的態度をとったにもかかわらず、その点を曖昧にぼかし、俳優座山本圭氏の談話等で記事を構成し、何ら私どもの了解なく掲載した点。さらに、「伊藤牧子をNHKの仕事の帰りに取材すると…」に関しては次のような卑劣きわまる方法をとった事実があります。

去る9月24日、劇団のデスクを通じて記者が「現代の若い劇団の演技について」伺いたいという理由で私に面会を求め、のちに私個人に対しては前言をひるがえして「加藤さんとの婚約を発表なさると聞いて来ましたが、それについて伺いたい」と切り出しました。私が「そのような事実はなく、また、そういった趣旨の取材にはお答えする必要がない」と拒否しますと、「実はこの件については加藤さんの御内諾を得てある」と笑止な作り事をいうので問いつめると「実は今晩8時にその件で加藤さんにお会いする約束があるのだ」とまた、言葉をひるがえします。もちろん、加藤さんにはそのような 約束などなかったのです。(中略)

この記事には7枚の写真が扱われていますが、そのうち1枚は私の写真、3枚はフジTV「三匹の侍」の仕事場における加藤氏と他の人のものです。私の写真も、劇団三十人会の劇団員紹介アルバムから無断転載でした。加藤氏の写真も、担当記者が偽りの理由で撮影したものでした。(中略)

以上、私は、日本放送芸能家協会の一会員として被害のあらましを報告するとともに、協会がこうした不法行為から各俳優の権利と利益を守り抜く強固な体制へと発展することを心から願って止みません。

これに類似した報告は、黒柳徹子氏が「女性自身」から受けた被害を記しておられます。黒柳さんの場合も、実際にはありもしない、ある作曲家との結婚のうわさですが、このケースでは、記者が記事の不足に困っているので、事実無根を承知で執筆するんだ、と白状したと言いますから、何をかいわんや、でした。

命に関わる事故も、放芸協の発足直後に連続して発生しました。1964(昭和39)年10月1日、現在の天皇の弟君である常陸宮殿下と華子妃殿下のにこやかな写真の掲載されている同じ新聞紙面に「脱走演技の俳優二人、手錠をはめ行方不明に」とのショッキングな見出しが踊っていました。劇場用映画「誤審」(日本シネマフィルム制作、若松孝二監督)の撮影中、出演していた赤尾関三蔵氏と高須賀忍氏の2人が手錠でつなぎ会って川の浅瀬を渡るシーンで転び、そのまま流されてしまったのでした。10日後、遺体は700メートル下流で見つかるという痛ましい事故でした。映俳協を代表して補償交渉に当たった江見俊太郎氏は、日本シネマフィルムから150万円の補償金を取り付けました。

同じ頃、NET(現テレビ朝日)から放送されたテレビ映画「忍びの者」で火刑のシーンを撮影中だった立川さゆり氏は炎で脚に全治1ヶ月の火傷を負ってしまったのです。ちょろちょろ燃やすはずだった火が勢いよくなってしまった、では言い訳にもならない話です。いずれの事故も、管理の杜撰さから出た人災の事故でした。

「人権を守る会」はこうした製作の現場、そして無責任きわまりないマスコミへの糾弾の姿勢を込めてスタートしたのでした。

放芸協にとって大切だったもう一つのことは「日本著作者団体協議会」(略称・著団協)への参加です。

著団協は著作物に関わる人間の権利を共同して守ろうとする頭脳集団で1960(昭和35)年11月に発足、29の団体がすでに加盟していました。議長には、第1回芥川賞の受賞者であり、戦中戦後を通じて社会派作家として活躍した石川達三氏が就任しており、日本文芸家協会、日本シナリオ作家協会などの著作者と、映俳協など実演家を結集したものでした。

1963(昭和38)年10月29日には、日本文芸家協会の会議室に、文部省著作権制度審議会の勝本正晃氏(同審議会第4小委員会主査)を招請して研究会を開催。当時、日程にのぼっていた旧著作権法の改正に関わる諸問題の解説を受け、俳優側の抱える問題点の整理を行いました。勝本氏が主査を務める同審議会の第4小委員会は「映画的著作物に関する事項を審議する」で、この研究会にはスタートしたばかりの放芸協から佐々木孝丸、東野英治郎、坂東三津五郎、久松保夫の各氏が出席しました。

機関誌「放送人」の発刊

1963年11月20日、機関誌「放送人」の創刊号が発行されました。発行部数は、当時としては、清水の舞台から飛び降りる心境での4000部でした。日付は1964年1月となっていますが、冒頭に「入会のおすすめ」が掲載してあるところから見ても、会員増加を第一義にしての発行だったのでしょう。形はB5版の半裁よりも更に小さい変形で20頁立て。それでもグラビア1頁、電鉄会社とゴルフのカントリークラブの広告各1頁がある堂々たるものでした。

発刊に当たって、当時放送番組の脚本では第1の人気を勝ち得ていた劇作家の飯沢匡(いいざわ・ただす)氏は、「祝発刊 義務も何卒(どうぞ)!」と題する一文を寄せておられます。

「従来、権利、義務――いや義務はともかく、権利のことを芸能界でいうと「いやな奴」 ということになっていた。現在でもまだその傾向は強い。私などは直(じき)それをいうので、大変に評判がよろしくないわけなのだが、しかし今回のように芸能家諸氏も、ついに権利を守るために結束されたのは大体の傾向として喜ばしいことである。

ただし、権利、義務と揃わなくては本当でないので、義務の方も是非ともご履行願いたいものである。

作者である私から、いわせると、芸能家というかタレントの横暴にはかねがね腹に据えかねることが多い。そういう見地からいうと、彼らの権利なんてそんなに見てやる必要がないといいたいところだが、決してそんなことはいわない。

一応、法の命ずるままに厳重にタレント諸氏の権利を認め、そのうえで開き直って義務の方を責め立てる楽しみが我々に残されているともいえる。現段階では、ますます俳優の横暴に拍車がかけられる恐れなしともいえなくない。

だが、来るべき理想的な権利義務の世界のためには、貴協会の結成は、その第1歩であり、お祝いして然るべきことであろう」

まさに、飯沢氏の諸作品と同じくユーモアに満ちた辛口の文章でした。

しかし、芸能家とはそんな横暴な人間の集団だったでしょうか。同じ創刊号に、歌舞伎と新派の俳優で結成している(社)日本俳優協会の当時の事務局長、土岐雄志郎氏が寄稿された一文を読みますと、横暴どころか、名優といえども悲しい人生の終わり方をしなければならなかった実情を伺うことが出来ます。

 「先般、私どもの会員で無形文化財の歌舞伎俳優、市川団之助丈が87歳の高齢で逝去されました。そして政府からは勲記の伝達(勲四等瑞宝章)があり、脇役としては珍しい、そして名誉あることでありました。が、それはそれとして、筆者もそのご自宅の通夜に参列を致そうと出掛けました。

その際、お住まいが変わって番地不明のまま、近所の人、あるいは通行人に場所をたずねても、ほとんど本名はもちろん芸名も知らず、従って生死の程など全然無関心であるのを知りました。やっとお宅を探し当てて訪ねると、たまたま3、4名の僧侶が読経中でしたが、近親者、弔問者の2、3名と会わせてたかだか7名前後の人が棺側、玄関と廊下に一杯になって、後詰めの我々は露地に立ったままご冥福を祈ったことでした。

ある意味では、国が人間国宝と認めた芸術家であるからこそ、全てを芸のみにささげ、ひっそりと世間も知らず、知らせもせず、節倹を旨として、小さすぎる家に一生を終わられたのは立派であり、珍重せられるべきこととは考えられますが、この人が住んでいたにしては余りにささやかな遺産であり、世間の人の関心がうすすぎるのではないかと痛感させられました。

これはスター偏重――そしてスターでさえも落ち目の折りの一層の惨めさを誘う営利業者、マスコミのせいも多分にあるが、自衛の手段を持たないし、持とうとしない芸能人自身の責任とも思います。自分らの善意の結束と自衛手段の指導や解決を必要とする各界芸能家協会、あるいは組合の欠くことの出来ない存在理由の一つです」

何とも、悲しい話と言わざるを得ない出来事でした。