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1985年 | 日本俳優連合30年史

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1985年 | 日本俳優連合30年史

-1985年- 「会員協議会」の開催

1983年から1985年にかけて、日俳連には年に100人ずつ組合員が増加するという快挙がありました。組織強化を目的としてスタートした「仇役懇親会」、そしてこれが発展して正規の組織になった「映像対策委員会」。その活動を通しての組合員獲得策が功を奏した証拠でしょう。この当時、組合執行部の間で語られた「行動のないところに活路はない」あるいは「時はわれわれを待たないだろう」という一種の合い言葉が、俳優を動かす大きな力になっていたとも言えます。

1985(昭和60)年、日俳連は芸団協に対して強力な役員陣を投入することになりました。専務理事に小泉博・日俳連常務を、また常任理事に二谷英明・日俳連専務理事、江見俊太郎・日俳連常務理事を、さらに理事には森塚敏・日俳連理事、舟木淳・同理事、海老江寛・同理事というように錚々たる面々が芸団協の中枢を占めるにいたったのです。

また、この年7月27日には、東京・南青山の富丘会館で「第1回会員協議会」というのが開かれています。日俳連の最高議決機関は、定款上、総代会と決められていますが、120名の総代が全員出席することは事実上不可能であり、議題もとかく形式的になってしまう傾向があるため、もっとざっくばらんに重要事項を検討する話し合いの場を設定しようとの発想から常務会の名で招集されたものです。

当日は、理事、監事を選出する「役員選挙制度」と「賦課金(会費)のあり方」が主たる議題として取り上げられ、役員選挙制度については池水通洋氏、今井健太郎氏、大矢兼臣氏、小林昭二氏、高杉玄氏と高城淳一常務理事、村瀬正彦事務局長が委員となって原案作りに当たること、賦課金については正規の賦課金(会費)だけでは財政維持が困難だという理由から、「維持会費」の制度を新設する案が提案されました。

二つの提案は、同年10月31日に開催された第20期通常総代会の席で、いずれも承認され、実行されることになります。役員選出に関わる「役員選挙規約」が出来るとともに役員選挙管理委員会が設置されることになり、高杉玄氏、大矢兼臣氏らが選出されましたが、このお二人はこの後1999年まで14年にわたって職務を全うすることになります。

「維持会費」とは、経済的に余裕のあると思う人が、好意によって、強制されることなく支払うもの。6万円、3万6000円、1万2000円の3種類とし、自由意志でどれを選んでもいいことにしました。所謂会費は全組合員に平等に割り当てられるため「平等割賦課金」と呼ばれるのに対し、「維持会費」には差がついているので「差等割賦課金」と呼ばれます。この年に始まった維持会費は、その後、制度を現状維持としたまま今日まで続いています。

日本音楽・芸能文化の集い

1985(昭和60)年7月4日、東京・芝の東京プリンスホテルで 「日本の音楽・芸能文化の集い’85」と題したイベントが開催されました。主催したのは日本音楽著作権協会、日本レコード協会、芸団協の三者で構成する日本音楽著作権・著作隣接権団体協議会(略称・著隣協)で、当時の中曽根康弘首相、松永光文相ら政界の重鎮が顔を出し、日俳連からは森繁久彌理事長をはじめ池部良副理事長、二谷英明専務理事と小泉博氏、江見俊太郎氏、高城淳一氏、森塚敏氏の4人の常務理事、そして香川京子氏らが出席しました。

イベントの目的は、かまびすしくなってきている「録音・録画」の問題、「実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約」(ローマ条約)に加盟するかどうかの問題など、政治的に解決しなければならない問題を抱える中で、政治家と芸能人とが胸襟を開いて話し合おうというものでした。スピーチを求められた森繁理事長は「音楽関係の方々が沢山集まられて、このような催しをされたのは見事。(政治家の)諸先生方には、今後は演劇や映画、テレビで働いている俳優のこともお忘れなく」と挨拶しましたが、この当時はまだ元気だった作曲家の黛敏郎氏は「全ての芸能に携わる人々の集まりに総理が出席され、理解を示されたのは素晴らしい。問題解決に糸口が見出せた思い」と感動を口にされていました。

背景にストックホルム宣言

このイベントが実演家の手で盛り上げられた背景には、同年6月14~15日にスウェーデンのストックホルムで開かれた「録音・録画に関する実演家の権利」のセミナーの成功があったのです。SAMI(スウェーデン権利者徴収団体)、FIA(国際俳優連盟)、FIM(国際音楽家連盟)の三者共催で開かれたこのセミナーには日本を代表して日本音楽家ユニオンの佐藤一晴事務局次長と芸団協の浜坂福夫常任理事が出席しましたが、活発な討議の後、実に力強い宣言が発せられたのです。

実演の普及における技術開発とは、これらの権利が、他の知的または創造的権利に勝るとも劣らない同じ価値を持つべきであることを意味する。この原則は実演家の団体により全国的レベルで追及されるべきであり、国際的議論においても考慮されるべきものである。本セミナーは、とくに実演が固定される時の基本となる最初の契約が、個々の使用及びそれに関連する権利をそれぞれはっきりと明記すべき必要性に注意を喚起する。実演家のユニオンは、契約書及び合意書が全ての権利を総合的に譲渡してしまわないように確認しなければならない必要に迫られている。われわれは、放送局、IFPI(国際レコード製作者協会)及びその他の製作者たちに彼らの作る契約書が確実にこれらの 原則に従うものであるよう要求する。

この内容は、「ストックホルム宣言」として、全世界の実演家を勇気づけるものとなりました。

泣きたくなる役者稼業

「日俳連ニュース」No.33(「放芸」No.72)=1985(昭和60)年12月1日発行=にこんな“やりきれない”実話が掲載されています。

「東映京都『暴れん坊将軍』でのことでした。“雨天セット、10時開始。晴天はロケに出るのでなし”。日頃私たちが体験する撮影予定です。“当日は、朝一番6時の新幹線に乗るように”。これもまあ、あり得ることですね。!ところがです。“7時頃演技課に電話を入れろ”というのです。そして“ロケに出る天候なら、名古屋で降りて東京にお帰り下さい”ですって…。

当日は朝4時に起きました。前夜の天気予報は、全国的に晴天になるでしょう、というものでした。空を見ました。晴天です。でも、行かなくては…。つらいね、役者は。

列車の中では寝ることも出来ません。7時になりました。電話を入れました。が、担当者がいません。電話の相手は『晴れてはいる。けれど、担当じゃないと結論は出せません』というのです。一度電話を切らされて、また入れました。『ロケに行きます。お帰り下さい』と、今度は担当が言いました。

電話代が倍の600円になりました。運賃の源泉10%が、当分背負い込みになりました。名古屋駅構内の食堂で味気ない朝食をして、また、2時間小忙しく揺られて。とにかく新幹線で4時間かけて雨か、晴れかを聞きに名古屋まで行って来ました。」(英智・翁)

本当に大変だった時代の本当にあったお話です。